ヴィトリーヌという作品を、ぼくは誤解していたと思った。
そうか、これは光の中で見るんだ。
本当は、こんな暗いところで見るものじゃないんだ。外光でも人工光でもいい、とにかくまばゆい光を当てて、これらの作品を見直してみたい。そうすれば、ずっと当時の人たちの目に近づけるのではないだろうか。
そんなことを思った。
山口勝弘氏が1950年代に手がけた、ヴィトリーヌと呼ばれる一連の作品については、これまでも実験工房や瀧口修造がらみの展覧会で、何度か見る機会があった。
が、実験工房という、いくぶん神話がかった過去の歴史の遺品を目の前にしているのだということ以上に、正直言って、さしたる感興があったわけではなかった。
偏光ガラスの向こう側の、抽象画ふうの直線や矩形、そのくすんだ色彩も、余計にひと時代もふた時代も前の作品という感を強くした。
昔はこういうのが新しかったのだろうなと、なかば自分で自分を思い込ませるように、作品の前で、やたらと見る角度を変えたりしていたのだけど・・・。
梅若猶彦氏の公演の話だった。
しかしあれは能なのか、能を知らないぼくには、そこからしてよく分からない。
夕方の6時過ぎに会場のBankART1929に着いた。
受付で話を聞くと、開演は7時半というので、それまでしばらく、1階のホールで梅若猶彦氏の前作を上映するので、それを見てくれとのことだった。
ごちゃごちゃとマーケットの屋台が並んでいる中に大きなプロジェクターと椅子が搬入されて、即席の上映会場がしつらえられた。
そのうちに映像が始まったが、音声が聞こえない。時折、全然合わない音が鳴ったりする。
これはそういう演出なのではなくて、どうやら段取りが悪くて、冒頭のあたりでは音声の信号がうまく繋がっていなかったようだ。
が、梅若氏の映像作品「Birthday Cake」は、そんなドタバタを補ってじゅうぶんに魅力的なものだった。
登場人物は、青年、ナース姿の女性、そして、青年の化身とでもいうのか、白い荘重な衣装に身を包み、能面をつけた人物(今回の「一泊二食付き」公演のチラシなどのビジュアルで使われていた人物だ)。
Birthday、といいつつ、死の気配が漂う。あのナース姿の女性は何者なのか。
例えば、病院が人間の生と死との間にある場所であるとして、人を死から生へと引き戻す象徴的な存在が、ふつうぼくたちがイメージするナース。
では、逆に、生から死へと導くナースがいるとすれば、それは、この映像の中に現れる女性ではないだろうか。そんなことを思った。
登場人物にセリフはない。ワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」をバックに演じられる無言劇。
この映像作品のキャストなどの詳細がもっと知りたいのだけど、慶應のDMCのサイトを見ても、伝送実験をしたという記事程度で、作品の中身については情報が見当たらないよ。
青年と白装束の人物はともかくとして(梅若氏のご子息と梅若氏ご本人)、あのナース姿の女性を演じているのは誰?今回の公演にも出演していた北村明子氏?
だとすると、この北村明子という人には、かなり魅了されてしまいましたよ。私。
あーっと、前回書き忘れたことから書いておくと、BankART1929で見た眞島竜男氏のインスタレーションで、ピザを何度も繰り返し切り刻んでは重ねて、最後に犬がガツガツ食う映像は、結構衝撃的でした。
だんだんピザがピザの形をとどめなくなっていって、最終的には人の食べ物と犬の食べ物の境界線を乗り越えていくというか。そうか人の食べ物=犬の食べ物であり、犬の食べ物=人の食べ物なんだなあという、実は当たり前の事実に気づく。
それから、Studio NYKで見たおおば英ゆき氏のチョコレートを使った作品。
作家がどこまで想定していたのか知らないけど、ぼくが見たときには、ケースに収められたチョコレートの作品のいくつかは、かなりの部分カビに侵食されつつあって。
食べ物が次第に食べ物でなくなっていくさま(カビによる、ワーク・イン・プログレスとでもいうのか)をケース越しに見つめるのは、なんだか冷徹な美しさを感じた。
そんなところで、次の話題に移る。
BankART1929に行ったら、能楽師の梅若猶彦氏による公演があるというので、ついでに見ていくことにした。
といっても、生の能なんて、これまで全然見たことなんてない。

横浜のBankARTに「食と現代美術 Part2」という展示を見に行ってきた。
サブタイトルで「美食同源」なんてシャレてもいる。
そもそもぼくは、食べることも飲むことも大好きだが、食べることや飲むことについて書かれた文章を読むのも大好きである。
では、食べることや飲むことについて描かれた美術作品を見ることについてはどうか。
ま、あんまり考えたこともなかったけれど・・・。
BankArt1929の地下の、誰もいない展示室で、「絵画に現れる食のイコン」という映像をぼんやりと見ていると、そうか、この作品も、あの作品も、食というキーワードで引っ張ってこられるのか、という新鮮な思いがあった。
今回の一連の展示の中で、あの映像がぼくにとっては一番示唆的だった。批評的といおうか・・・。
何かを飲み食いして美味しい、というのと、何かを見て美しい、というのとは、確かに共通するものがあるのだろう。感覚的な部分と思弁的な部分とを行ったり来たりしながら、ひとつの感興、ひとつの記憶に結びついていくような、そういうプロセスがあるのではないかと思う。
一方で、食べることや飲むことについて書いた文章を読んで面白い、というのは、また少し違う話のようにも思う。地下の展示室で感じたものは、どちらかというとこっちの面白さに近いようにも思う。
それ以外の、今回の展示のために制作された作品の多くは、どういえばいいのだろう、あえて「食と現代美術」というテーマでくくるほどの「食」に対する切実さを、正直なところあまり感じなかった。
(とはいえ、BankArt Studio NYKの折元立身氏のインスタレーションは、とにかくこれだけ大量のパンを見たことなんてなかったし、もう少しぼくの頭がさえていれば、そこに何かの強烈なオブセッションを感じることもできたのかもしれない。鬼頭健吾氏のインスタレーションの前では、酒瓶からパイプを通って循環する色水の動きを見ながら、ぼんやりと立ち尽くしてしまった。そもそもぼくは、こういう作品が好きなのだ。また、BankArt1929の1階ホールのbook pick orchestraの企画は、「食について書かれた本」を使って、ひとひねりしてあって、ちょっと面白かった)
むしろ、これまで「食」というテーマでくくられていなかったものを、あえて「食」にくくりつける行為のほうに、ある種の壮快さを感じた。
それを逆転させれば、これまで「美術」にくくられていなかった「食」を、強引に「美術」にくくりつけてしまうということになるのだろうか。
実際に、今回の展示でも、横浜の実在の飲食店がBankArt1929の1階ホールに出展していて、ぼくも会場内でシンハーを飲みながらグリーンカレーやパッタイを食べたり、泡盛を一杯やったりした。また、「横濱芸術のれん街」と題して、市内の飲食店の店内に作品を展示するコラボレーションの企画もあり、こちらのほうはあまり見られなかったけど、野毛の「三陽」の中の風船とパンツのインスタレーションは見た。
まあでも、そうした、言葉は悪いけど、ある意味では中途半端な企画よりも、例えば三陽などは、店の存在自体が強烈な力を放っている。
だから、そのような「異形」の「食」を切り出して、そのまま「美術」として提示する、という方法のほうが、ストレートな力強さを感じることができるのでは、とも思う。
その点では、BankArt1929に展示されていた林のり子さんの仕事は興味深かった。
また、増山麗奈氏の自分の母乳を使ったパフォーマンス。ぼくは残念ながらその実演を見ていないので、それ自体についてどうこう言えないのだけど、母乳を使ったお菓子と聞くと、どうしても「探偵!ナイトスクープ」の名企画「母乳でケーキ」を思い出してしまう。
ていうか、ナイトスクープでの林繁和先生の一連の企画は、あれはもう現代美術ですよ。ABCのサイトには掲載されていないけど、女の子が自分の等身大のバレンタインチョコレートを作ってほしいという依頼もあったなあ。あれなんか、ちょっとジョージ・シーガルじゃん。
話はそれたけど、「食と現代美術」というなら、ぼくは、生々しい「食」の現場にもっと立ち会いたい。だから、BankArt1929を出て、野毛町に入り、立ち飲みで辛いソースのフライを食べ、理容室を改造したバーで一杯やり、ラスカルズの流れるおでん屋で焼酎を飲んだ後、「三陽」でネギトリを食べた。
さて、食と現代美術について考えていて・・・。
本当は、美術と食の話をするのなら、美術と性の話だってしなければいけないとも思う。
「食」を「性」と読みかえて、「絵画に現れる性のイコン」なんて企画をしたら、いくらでも作品が挙げられることだろう。
とはいえ、どうしても、セックスの話は恥かしいのだが、だったらどうして食の話は恥かしくないのか。いや、もともと恥かしい話だったのが、飲み食いについての情報がアホほど流通するようになって、そのへんの感覚がすっかり麻痺してしまったのか。まあよくわからないが、芸術とセックスは、その深いところで通底しているはずのものだ。
芸術と芸能との重なりあい、そして芸能とセックスの不即不離なこと、実は、小沢昭一さんの本から多くの示唆を受けたし、まだまだ知るべきことが多い(だから要するに、ぼくにとって、思いが至ったのは、しょせんここ1年くらいの話だ)。
このへんは、ぼくが多言を費やすより、小沢さんの「私は河原乞食・考」や「私のための芸能野史」を手に取っていただければ・・・と思う。
ぼくも、今夜もう一回読みかえそう。
BankART 1929
http://www.bankart1929.com
探偵!ナイトスクープ(朝日放送)
http://www.asahi.co.jp/knight-scoop/

今週は、小沢昭一的こころのストリーミング放送の更新がなくて寂しい一週間ですが。
実は最近、毎朝歯を磨いたり髭を剃ったりしてる間じゅう、BGM代わりに昭一的こころを流しっぱなしにしておく習慣がついてしまったもので、余計にそう思う。
おかげで、ちょうどいいタイミングだったというか、先週届いた「唄う小沢昭一的こころ」を流しっぱなしでありますよ。
ここんとこ、小沢さんのメディア露出が多くてウレシイ。
「散歩の達人」3月号の池上線特集に小沢さんのインタビューが掲載されてますね。
小沢さんが少年時代を過ごした戦前の蒲田の思い出を語っています。
小沢さんの話のせいもあるけど、この特集を読んでいて、いっそ蒲田界隈に住んでみたいって思ったな。って、毎号、散歩の達人を読むたび、一度はそんなことを思う次第ですが・・・。
池上本門寺の節分会の記事の写真を見ると、中村有志さんと大竹さんが豆をまいているのを発見。両氏とも何気に嬉しそうである。そっか、今年はシティボーイズライブを本門寺の境内でやるからかあ。これは小沢さんとは関係ないですが。
「オール讀物」2月号掲載の、俳人の金子兜太氏と小沢さんの対談。
この対談については、昭一的こころの「我ときて遊べや、について考える」の週の放送で小沢さんも触れてましたな。
ストリーミング放送を聞いた後、しばらくしてから錦糸町にオール讀物を買いに出かけた。まずアルカキットのくまざわ書店を覗いたら売り切れ。アルカイーストの中の小さな本屋で見つけたときは、どういうわけかほっとしたなあ。
単に最初の店で売り切れてたというだけのことですが、ひょっとしてリアルタイムで番組を聞いた人たちが、一足先にオール讀物を買い占めてしまったのでは?という妄想にかられてしまったよ。
しかしオール讀物って、生まれて初めて買った。そうか東海林さだおの「男の分別学」もオール讀物連載なのだなあ。
あの作家も、この作家も、短編を寄せていてかなりのボリュームだ。普段小説を読みなれないぼくには、これを全部読むのは大変だ。
最初、その昔の「本の雑誌」の企画をシャレて、「オール讀物2月号484ページ単独完全読破」ってのをやろうと思ったのだが、現状、小沢さんの対談と「男の分別学」(これも2月号は対談)、それに冒頭の短編1、2篇を読んだだけ。
小沢さんの対談は「ああ愉快!尿瓶健康法のすすめ」って、一見、「壮快」とか「わたしの健康」みたいなタイトルですが、まあでも、私も年をとったら尿瓶使おうと思った。実家は古くて冬は寒いから、対談でお二人が語っているような話(トイレが近くなった年寄りが、冬の晩に寝床からトイレに立ったきり、寒さであの世に行っちゃうという話)はシャレにならないなあ。まず母親にでも薦めるか。
尿瓶話以外では、「小沢昭一的こころ」制作の綿密な準備や、録音当日の小沢さんの気構えの話が興味深かったな。小沢さんからその話を聞いて、てっきり原稿なしのぶっつけ本番だと思っていた金子氏の驚きも。
練りに練ったものをあたかもアドリブのように見せる、というのがプロの仕事だなあ、と改めて思うわけですが、いやはや、私などにはとても。

イーブックオフのサイトを覗いてみたら、小沢さんのCD「唄う小沢昭一的こころ」が出ていたので、即買いしてしまった。
このCD、例のラジオ番組「小沢昭一の小沢昭一的こころ」の平成4年の年末から翌平成5年のお正月まで3週間分の放送をそのまま収録したもので、今となってはもう13年前の放送だから、中古で買っても許していただけるのではないかと、勝手に思っている次第なのですが。
届いたCDを早速聞いてみると、小沢さんの声も13年分若いのかなあ。それに若干、喋りのテンポも今より速い感じ。それとも、CDにするからということで、小沢さんも、普段よりよそ行き気分なのかな。
戦前の演歌、寄席で歌われていた俗曲、そして軍歌(ただし反戦気分ね)まで、縦横無尽に唄いまくる小沢さん。しかも全部アカペラ。
この週末のぼくのヘビーローテーションでした。
このCDの最後のトラックのエンディングに、翌週の番組予告まで収録されているけど、これは単行本になっている「東海道ちんたら旅」の続きなんだなあ。思えば、このころまでは「小沢昭一の小沢昭一的こころ」の文庫本が出ていたりして、当時の放送内容をたどることができるわけだ。
最近はストリーミング放送しているわけだから、CD化とまではいかなくても、過去の分もオンラインで購入できるようにならないかな。
いくらだったら買うか。うーん、1回100円、1週間分で500円ならどうでしょう。1年だと2万6千円か。そうすると高い気もするなあ。貧乏人でスイマセン。
大体この週末も、XXくんだりまで出かけてXXなんか行ったりしなきゃ、「唄う小沢昭一的こころ」どころか、「唸る、語る、歌う、小沢昭一的こころ」だって余裕で買えたんだ。
まあいいや。