思いもよらず、大野一雄、慶人親子の競演を見ることになった。
といっても、ぼくらが会場に着いたときには、銀座の古いビルの地下の狭い空間は、すでに人でいっぱいで、階段の陰から首を思いっきり伸ばしても、ときたま、踊り手である大野慶人氏の姿をほんのわずか窺うことができるだけ。
いったいその奥で何が行われているのか、前のほうの観客の反応から推し量るしかなかった。
そもそも、最初はこんな秘儀めいた舞踏を見る予定ではなかった。
ぼくの年長の友人であるIさんのお父さんが美術作家で、ちょうど今、個展が銀座の画廊で開催されている。それで、Iさんを誘って見に行くことにした。
すると、その画廊の経営者の長男が、ぼくたちの共通の友人なのだが(というか、ぼくたちを引き合わせてくれたのが彼だ)、今は勤め人をしていて、普段は結構忙しくしているらしいのだけど、その日、銀座で見たいイベントがあるから、一緒に行こうという。
待ち合わせの和光の前から、ずいぶん遠くまで連れて行かれた。
古ぼけた雑居ビルの地下室は、すでに階段の踊り場まで立錐の余地もなかった。
それが、大野慶人さんのダンスパフォーマンスだった。やはり、誰か美術作家の個展のオープニングの企画として行われているらしい。
最初に書いたように、慶人さんの姿はほとんど見えなかったのだけど、ほんのわずかの隙間から、その白く塗られた顔と、手の先に付けた指人形のようなものが、目に入った。
その指人形が、父親である大野一雄の姿をかたどっていることも、すぐに分かった。
慶人さんの舞踏そのものよりも、この狭い空間に、どこからか大勢の人が詰め掛けて、ほとんど見えるか見えないかというくらいの慶人さんの姿を、息を殺して凝視しようとしているという、その現象が興味深いなと思いながら、一歩離れて全体の状景を見ていた。
もとより、ぼくは舞踏やコンテンポラリー・ダンスの類は、ほとんど知らない。
大野一雄という人が、舞踏の世界で大きな存在であるということを、耳学問として聞きかじっているだけだ。
パフォーマンスが終わった。人が散らばり、地下室の中は、なんとか歩けるくらいの余裕ができた。踊り終えた慶人さんが、グラスを片手に顔見知りらしい観客と談笑している。
会場に展示されている作品を見ながら、慶人さんたちの会話を聞くでもなく聞いていると、もうすぐここに、大野一雄さんが到着されます、という誰かの声が聞こえてきた。
大野一雄舞踏研究所
http://www.asahi-net.or.jp/~ab4t-mzht/
「与太郎戦記」の話の続き。
ところでこの映画、最初から最後まで、下ネタというか、セックス絡みの話ばっかりなのだ。
大体において、この映画に出てくる女性は、女給にせよ、遊女にせよ、慰安婦にせよ、ほとんどが男性のセックスの対象として描かれている。
唯一、自立した女性としてキャラが立っているのは、戦地での看護婦ということになる。
別にぼくは、特段モラリストでもフェミニストでもないけれど、こうした女性の描き方には、さすがに違和感があった。慰安所の場面など、今ならコメディーとしては描けないだろう。
ふと疑問に思うのは、当時の軍隊ではマスターベーションの習慣がなかったのだろうか。あるいは、軍人たる者マスターベーションなどしてはいけない、貴様それでも軍人か、というような規律でもあったのだろうか。
くだらない話で恐縮ですけどね。
でも、男色の場面はあるのに、オナニーが出てこないなんて、ちょっと順番が違うんじゃないかと思う。
まあ、営舎では雑魚寝で、戦地ではいつ敵が攻めてくるか分からないのにそれどころじゃない、ということなら致し方ないけれど、でも、もしその問題がクリアされていれば、極端な話、従軍慰安婦の問題も起きなかったんじゃないだろうか?
ともあれ、軍隊というのは、つくづく男ばかりの集団で、これはやっぱり異常なことだ。
今の軍隊ではどうなのだろう。自衛隊や米軍では女性の兵士も結構いるようだけれど。
もうひとつ、これもヘンな話で恐縮だけど、男が童貞であることが、ある種の美徳として扱われているということに、大げさにいえば、新鮮な驚きがあった。
数々の誘惑やチャンスにもかかわらず、結局、与太郎は童貞のまま戦地に赴いて、敵の銃弾を受けて野戦病院に送られることになるのだけど、そこの従軍看護婦に一目ぼれをした与太郎は、彼女に対して、自分の童貞の操を捧げたい、というような内容のラブレターを送る。
要するに、自分が童貞であることを好きな女性に堂々と宣言して、しかも、それがプラスのポイントになると考えている。今だったら、もし女の子にそんなメールを送ったら、ちょっとマズイんじゃないだろうか。
むろん、ラブレターのシーンはコメディーとして描かれている。したがって、この映画が制作された1969年の時点では、すでに童貞の美徳が笑いの対象に変っていたということもいえるが、さらに過去にさかのぼれば、童貞であることが価値をもっていた時代もあったのだ。それは、処女の美徳という価値観が存在した時代があったように。
京橋の東京国立近代美術館フィルムセンターに行ってきた。
春風亭柳昇原作・出演の映画「与太郎戦記」が、「特集・逝ける映画人を偲んで 2002-2003」というプログラムのひとつとして上映されるという。
2002年1月1日から2003年12月31日までの2年間に逝去した映画人を追悼する特集ということで、この作品の上映で追悼されているのは、もちろん春風亭柳昇師。
柳昇師匠が亡くなったのはいつだっけ。なんだかずいぶん前のような気もする。
大きいことをいうようだが、春風亭柳昇といえば、いまやわが国にはひとりもいなくなってしまった。
実は、このフィルムセンターで映画を見るのは、これが初めて。
この場所自体は、これも亡くなった大辻清司の写真展を見にきたことがあるけれど、いつぐらいのことだっけ、と思ってカタログを確かめたら、1999年の開催だったか。こっちのほうは、もっと最近のような気がしていたのだが、そうでもなかった。
大ホールの中に入ると、思ってたより広くてキレイ。椅子も大きくて座りやすい。
さて、この作品は、自ら従軍経験のある柳昇師匠の軍隊生活についての手記を原作にした映画で、1969年の制作になる。
主役の秋本与太郎を演じるのは、フランキー堺。この人も亡くなって久しい。そうか、フランキー堺って、柳昇師匠より先に死んでるのか。
柳昇師匠はワキで軍医として出演するほか、当時の人気落語家が総出演、ということらしいが、いかんせん、もう36年前の映画でしょう。キャストを見ると、まだ生きてる人でいっても、三遊亭金馬、三遊亭歌奴(今の円歌師匠ですよね)、月の家円鏡(同様に円蔵師匠ですよね)の各師が出ていたらしいが、正直言って、誰が誰か、よく分からなかった。ひょっとしてあれがあの人だったのかな・・・、という程度。さすがに柳昇師匠は分かったけどね。この頃で50歳くらい?
基本的にはコメディーだから、さまざまな軍隊生活のエピソードがカリカチュアライズされて描かれているのだが、笑いにくるまれている分、ふとしたシビアな部分も気にかかる。
入営直後のいかにも与太郎らしい失敗談から、仲間や上官に得意の落語で歓心を得たり、新婚夫婦の部屋を覗こうと偵察に出たりと、結構、ほのぼのとした営舎での生活。
それが一転、後半部では秋本一等兵はいよいよ戦地に送られる。
スクリーンの上端を、静かに行軍する隊列。その隊列を見上げるように、荒寥とした枯野を大きく切り取った構図が印象に残る。
東京国立近代美術館フィルムセンター
http://www.momat.go.jp/FC/fc.html
特集・逝ける映画人を偲んで 2002-2003
http://www.momat.go.jp/FC/NFC_Calendar/2004-12-2005-02/kaisetsu.html
杉田かおるの結婚報道からしばらく経つが、いまだに芸能ニュースでは何かにつけこの話が取り上げられているようだ。
「ありがとう浜村淳です」のインターネット放送を聞いていると(なんでそんなのを聞いているんだと言われそうだが)、パーソナリティーの浜村淳が、今回、杉田かおるの旦那になった男性のお祖父さんにあたる人の名前を「あゆかわぎすけ」と読んでいるのが気になる。
いうまでもなく、戦前の日産コンツェルンの総帥であった鮎川義介(あいかわよしすけ)のことである。
人の名前の読み方というのは難しいもので、音読みと訓読みということでは、当の本人が両方を是としている場合もある。例えば菊池寛は、「きくちかん」と「きくちひろし」のどちらの読み方をされても、さほどこだわりがなかったという話を読んだことがある。
が、鮎川義介の場合はどうなのだろう。
「あゆかわ」か「あいかわ」かというのはともかくとして、名前のほうは、ぼくはかれこれ20何年間「よしすけ」という読みに馴染んでいたので、どうしても浜村淳の「ぎすけ」という読み方が耳について仕方がない。
一度ならまだしも、番組で杉田かおるの話題を取り上げるたびに、毎回「ぎすけ」と言っている。誰か指摘してあげればいいのだが。
なぜ、鮎川義介の読み方問題にこだわるのかというと、実は、ぼくの社史好き、創業者好きの原点は日産自動車で、1983年は日産が創立50周年を迎えた年だったが、小学生のぼくは、わざわざ日産自動車に直接注文して、50年史の本を送ってもらったりしていた、まあヘンな子供だったのだ。
だから、今回の杉田かおるの結婚で話題になった鮎川義介とか、例えばDATSUNのDATの由来となった田健治郎、青山禄郎、竹内明太郎の名前などは、もう20年以上のおなじみである。
といって、そこから自動車マニアという方向には行かず、どういうわけか、いわば会社マニア、企業経営マニアとなって、今に至る。
ちなみに、ここ最近関心があるのは、岡山の林原グループ。役員とか大株主の一覧とか財務諸表とか見たいなー。同族経営の非上場企業(ぼく好みだ)だから、ほとんど経営の情報が外に出てないみたいだけど。
ありがとう浜村淳です
http://mbs1179.com/arigato/
日産自動車のあゆみ
http://www.nissan-global.com/GCC/Japan/History/history/index.html
春光懇話会のあゆみ
http://www.shunko.jp/shunko/enkaku/enkaku.html
林原グループ
http://www.hayashibara.co.jp
寒い。凍えてしまう。
寒かったからかどうか分からないけれど、今朝、ふと目が覚めて時計を見たら7時半だった。
これまで何度か書いているが、ぼくは毎朝、6時前には目覚ましを鳴らすようにしている。
それが7時半とは。
おかしいな、目覚まし自体が今朝は鳴らなかったのか。それとも、鳴ったけどすぐ止めてしまって、また深い眠りに戻ってしまったのか。
ま、6時に目を覚ましても、部屋の明かりやラジオだけつけて、また布団の中に戻ることも多いし、最終的に起き出すのが7時半ということもザラなので、それほど慌てる時間じゃないって言えばそうなんだけど。
今朝などは、多少慌てつつ身支度をして、会社に来てみたら、むしろ、いつもより早いくらいの時間に着いている。
それくらいの距離の場所に住んでいるということです。
小石川の居酒屋で飲んでいた(先週末の話だ)。
地下鉄の後楽園駅を出て、文京区役所の角の交差点から、もう少し北に行ったあたり。
肉がうまい店と聞いていたのだが、正直言って、ま、それほど感動はなかった。
といって、別に不味いわけでもない。最近あまり肉を食べつけていないから、肉の旨さに鈍感になっているのかも知れない。
煮込み、串焼き、レバ刺し、牛刺し、肉じゃが、などでお酒を飲んだ。
感動はなかった、と言いつつ、実は結構お銚子を空けてしまった。
どうしてわざわざ小石川で飲んだか。
前に、ワイシャツが5枚入った福袋を買った話をしたでしょう。
小石川には、たまたま、ぼくと首周りがほぼ同じで、手がぼくよりやや短い、という人が住んでいて、ワイシャツ2枚あげるから、代わりに小石川でご馳走してくれ、と言ったわけ。
どうみても優にワイシャツ2枚分以上飲み食いしたので、ぼくも相応に出したけどね(と思うのだが)。
実は、小石川というところは、これまでぼくと縁がないわけではない。
縁がないどころか、小石川は、ぼくが東京に出てきて、初めて住んだ場所だ。
地元が運営している学生寮があって、そこから4年間、学校に通っていた。
とはいえ、小石川あたりの地理を、どれだけ知っているかといえば、はなはだ怪しい。
ぼくが住んでいた寮は、いかにも古くて汚い建物だったが(当時から築30年とか40年と聞いていた。今でもその建物は現役で使われているはずだ。いったいどれくらい経つのだろう)、狭いながらも個室ではあった。
だから、自分の部屋の中にいるか、それとも部屋を出て学校に行くか。
授業にはろくに出なかったが、とりあえず学校の周りにはいた。学校に行ったら、なんやかやで、ほぼ毎日のようにお酒を飲んでいたような気がする。むろん、学生向けの安居酒屋だ。
毎日、朝遅く寮を出て、夜は夜で、お酒を飲んで遅く帰ってくる。外で食事をしないときは、むろん寮だから、朝飯と晩飯は出る。
寮の近所で飯を食ったり、酒を飲んだりしたことは、そりゃあ何度かはあるだろうが、行きつけの店、思い出の店、というのが、特にあるわけではない。
今のぼくなら、街をそぞろ歩いて、目に付いた喫茶店や居酒屋にふらりと入ることもあるだろうが、学生の頃のぼくには、そんな趣味はなかった。
実は今年になってから、まだジムに行っていない。
いろいろエラそうなことを言ってはいるが、所詮この体たらくである。
今週こそ時間を見つけて行かねば。
それだったら今日から行けよな、とお思いの方もいらっしゃるかも知れないが、あいにく毎週月曜は、ルネサンス両国、お休みなのである。
ご覧のようにペースは鈍っているものの、ジム通いを始めたのが、今からすると一昨年の6月だから、これで、もう1年半程になる。
早いですねえ。
自分でも、自分の性格が、飽きっぽいのかそうでないのか、よく分からない。
このジム通いは、まあ長続きしたといってよいでしょう。
今まで飽きたケースでいうと、NOVA。
これも、今から思えば、しばらく通っては止め、また通い出しては挫折し、引越しついでにスクールを変え、トータルでどれくらい行ったんだ。
恥ずかしながら、合わせて3つのスクールをはしごして、足掛け6、7年程は通ったんじゃないだろうか。
むろん、その間、みっちり行ってたわけじゃない。そうしたら今ごろ、英語ペラペラかも。ま、こういうのを、取らぬ狸のなんとやらと言うんでしょうが。
なんで行かなくなったのか。
NOVAって、いや、どこの英会話スクールでもそうだろうけど、事前に予約しとかないといけないでしょう。それが面倒で。
予約しちゃうと、その日になって、気が向かないからヤーメタ、というわけにはいかないし。お金が戻ってこないから。
逆に、急にその日になって気が向いたから、行こうかな、って思っても、大抵はもう教室は一杯だし。まあVOICEルームなんてのもありますが。
そうやって、お金をドブに捨てたり、気が乗らないのにイヤイヤ出かけたりしているうちに、本格的にすっかり行く気がなくなってしまった。
いくらかポイントが残ってたと思うけど、もういいや。どうせ有効期限も切れてるだろうし。NOVAにくれてやろう。
その点、スポーツクラブは、気が向いたら行けばいいし、気が向かなかったら行かなきゃいいから、気が楽ですね。
英会話スクールも、そういうところがあればいいのに。もしかしたら、あるのかな。
こうしてみると、やっぱり飽きっぽいんでしょうね。
思いつめたら一直線、というふうには行かない人だ。
いや、一瞬は思いつめることもあるんですけどね。
例えば、去年の12月頃など、自分が墨田区の芸術文化振興を背負って立つんだ、くらいに思いつめていた。例の展覧会に携わっていた間は。
それで、区内各方面にアポなしで出向いたり、ほとんど面識もない人にメールや電話をしたりと、かなーり恥かしいことをしていた。
いま思えば、あのときの盛り上がりは一体なんだったんだろ。
ほかのことに気を取られているせいもあるが、もうすっかりお熱が冷めてしまって。
この10何年、思い起こせば、こういうことの繰り返しの人生なのだ。
昨日、たまたま見つけたページ。
http://forum.nifty.com/ftheater/sp/bakama/
まだじっくりと読めてないけど、こういう人が、思いつめたら一直線な人なのだろう。
ぼくは、とてもうらやましい。
富山とか、黒部について考えていて、ふと、自分が昔書いた文章を思い出した。
いま読み返してみると、なんだか大仰すぎて気恥ずかしいのだけど、そのときの思いが表れていると思うので、そのまま引用する。
* * *
瀧口修造について
まず、できるだけ客観的な地点からはじめたい。
1903年富山県に生れる。1931年慶應義塾大学文学部英文学科卒業。詩人・美術評論家。著書『近代芸術』『16の横顔・ボナールからアルプへ』『幻想画家論』『点』『余白に書く』『画家の沈黙の部分』『寸秒夢』。1979没。
(ハーバート・リード『芸術の意味』訳者略歴より)
これだけを引用して、改めて読み返してみるが、どこで引っかかるか。
富山県生まれということ?(僕と同郷だ。これは後でもう一度考える)
詩人であり、美術評論家であるということ。(その関係は?)
僕の手持ちの第17刷(1981年発行になっている)では、「1979没」という部分だけ印刷の調子が違っている。後から付け足したのだろうが。亡くなってから2年しか経っていない。
僕が瀧口修造に決定的に出会ったのは、2年前の夏、町田市立図書館の書架だった。
(2年も経っていることに愕然とするが)
そこには思潮社の現代詩読本と『瀧口修造の詩的実験1927-1937』があった。いったい僕は何を探していたのだろうか?
瀧口という名前だけは知っていた、と思う。手持ちの現代美術辞典には瀧口修造の項目があった。それに、佐藤朔のエッセイ集『反レクイエム』に、瀧口修造の回想が収められている。これも僕の書棚にある。
(佐藤朔は慶応での瀧口の学友、のちに慶応の塾長になる。去年亡くなった)
まず、瀧口が富山の出身ということに驚いた。そしてこの驚きから瀧口に入ったことは、僕の倫理的な態度表明を永遠に要請するだろう。
つまり、僕が瀧口と同郷という事実から離れられない以上、その一点から瀧口修造は僕に永久に問いかけつづける。何かものを書くこと、生きること、すべての局面において瀧口の存在が僕の中に永久に突き刺さりつづけるだろう。
ここでいたずらに郷里を強調しているように見えるのは本意ではないが、ひとつの重大な契機であることは確かである。
しかし、こう書いてみて、自分の文章の仰々しさに鼻白む思いがする。2年も経っているのだ、この間自分はいったい何をしてきたというのか。絶対的な局面を回避しつづけてきたのではないのか。
(1997.7)
瀧口修造とシュルレアリスムに出会っていなければ、今のぼくはまったく救われないものになっていただろう。
愛という言葉の意味もはじめてシュルレアリスムに教えられた。これまでのぼくは、愛という言葉に羞恥とかすかな嫌悪をもってしか接することはできなかった。そのさなかにもぼくだけの定義は保ちつづけようと努めてはきたのだが。
ぼくの中でひとつの感覚ができあがりはじめていた。
僕は生まれてはじめて愛の詩を書こうと思った。
(1997.8.27)
なんだかまじめすぎますよね。ものすごくまじめにシュルレアリスムをやっているというふうに見えてしまう(これはこのHP全体にいえることかもしれませんが)。自分は本当はこんな誠実でも潔癖でもないのに。
言葉にするとどうも書いている自分と激しく乖離していくようで恐い。
だからこれはもう乖離でもなんでもないんですよね。読んでいるみなさんは、これはぼくのことではなく、といって誰のことでもない、ここにある言葉そのものでしかないもの(物質としての言葉、などといいかえると瀧口っぽいですが)と思ってください。
蛇足ですが。
(1997.8.28)
瀧口が富山の出身だと書いたが、ぼくは瀧口の生まれた村に行ったことがある。生家はとうに残っていないが、菩提寺に瀧口修造の墓碑があると聞いたからだ。
出発が遅かったので、最寄りの駅から20分ほど歩いてそことおぼしき集落につくと、もう日が暮れかかっていた。ちょうどお盆のころで、公園には盆踊りのやぐらが組んであり、家々の窓からはなんとなくお線香の匂いが漂ってくるようだった。暗がりの田んぼの上を風が通っていった。
正直言って、吐き気がした。というのも、自分が生まれ育った環境とあまりに似ていたから。あまりに絶望的な、日本のどこにもある、田舎の地域共同体。
あの瀧口修造もこんなところから出たんだ。それとも、こんなところだからこそ?
この村から出て、アヴァンギャルドの姿勢を一生貫くのはどんなにつらいことだろうかと思った。この村が悪いわけではない。もちろん、瀧口が悪いわけでは決してない。ただ、悲しいことだ。
瀧口の墓碑を探そうとしたが、どこに菩提寺があるのかもわからなかった。そのうちにあたりは真っ暗になってしまった。
あきらめて一軒だけやっている小さなスーパーで飲み物を買い、電話でタクシーを呼んでもらった。その店のご主人の住んでいる家はもともと瀧口の生家のあったところだが、今は何も残っていないという。ときどき東京から大学生や研究者が訪ねてくるとも聞いた。結局変人ながやろ、とそのおじさんはぼくに言った。ぼくは曖昧に笑ってうなずき、タクシーに乗って帰った。
(1997.8.29)

* * *
2005年の追記
1997年から、またずいぶん時間が経ってしまったものだと思う。
瀧口修造は、1976年に富山県の新聞に寄せた、私にとってふるさととは何か、という小文の表題を「澄明な存在の核心」としている(「コレクション瀧口修造」第1巻に収録されている)。
改めて、この言葉を噛み締める。
今回の「新ニッポン居酒屋紀行」は富山編。
初回放送を録画しておいたけど、帰宅してから最初の挨拶をちょっとだけ見て、なんとなく面映くてすぐに止めてしまった。
ま、ぼくが面映がることはないんだけどさ。
あんまりにも富山はいい、って言われると、本当にそうか?と思ってしまう。
あなたはそうおっしゃいますがね、そこに住んでいるわけでもない、他県の一見さんの甘やかしの感想なんじゃないの、と。
いや、太田さんが悪いわけではなく、そもそもが居酒屋とは関係のない話なんだけどね。
確かに食べ物やお酒はうまいんだろうし、いい店だってあるんだろう。
ただ、手放しの富山礼賛には、どうしても違和感があるということ。
ぼくがここで何を言いたいかというと、富山県民の政治意識、そして文化度の低さ。
コミュニティの外部の者に対する閉鎖性と、内側の息苦しさ。
住民に自発的に地域を面白くしよう、より良く変えていこう、という意識が希薄。
エライ人が高いところで笛吹けど、誰も踊らず。それでいて、市民は市民で、自分から踊り出そうという気概もない。
むろん、これは自省をこめて言うのだし、かつ、長く故郷を離れているぼくに、そんな批判をする権利があるのか、って言われれば、すいません、って謝るしかないんだけどさ。
例えば、黒部市長が初出馬から7期連続無投票当選ってどういうことだ。
市長も市長だが、24年間もなんにも言わずに選び続ける市民もどうかしている。
その市長は、去年の1月に、もちろん無投票で7期目の再選をされたあと、他町との合併問題で醜態をさらした挙句、辞任。
それで8月には、いきなり三つ巴の選挙戦ということになるのだが、三人ともそんなに選挙に出たかったんだったら、市長が辞める前に立候補しとけよ。
市民の政治に対する無関心さ、当事者意識のなさ、事なかれ主義が如実に表れている。
24年間、市内に誰も人材がいなかったの? 外からいい人を担ぎ出すという動きもないわけ?
前の知事にしたって、6期24年間。現役知事では最多選、最高齢だったっていうから、もう富山県というのは、そういう風土、県民性だということなんだろうね。
そもそも、こうした現実を、県内メディアはどこまで指摘しえたのか。内輪で互いの面を褒めあうような、なあなあの報道でお茶を濁してきたんじゃないのか。
水がうまい、魚がうまい。もちろんそれに越したことはないが、県外の人は、あまり甘やかさないほうがいいと思いますよ。県内の人も、富山よいとこ、って言葉に単純に喜んでいる場合じゃない。
黒部市や富山県については、こんな記事もある。
「漂う黒部市」
http://www.hokuriku.chunichi.co.jp/toyamaoffice/kurobe/
「中沖県政24年」
http://www.hokuriku.chunichi.co.jp/toyamaoffice/nakaoki/
県外資本の北陸中日新聞だから、まだこういうスタンスの記事が書けたんじゃないかと思うけどね。
「新ニッポン居酒屋紀行」番組情報
http://www.tabi-ch.net/gourmet/new_izakaya/index.html
うちにいると、なんとなくインターネットを見たりして、無為に時間を過ごしてしまうことが多い。
だらしない性格だと思う。
それで、とりあえず外に出る。
両国、錦糸町界隈のファストフードや喫茶店で、いいところを探している。
お茶か軽食程度で、ある程度長く腰を落ち着けることができるところがいい。
照明が暗かったり、タバコの煙が充満しているような店はよくない。
他の客の話し声が多少耳に入ってくる程度がいいが、あまり騒々しいのはよくない。逆に、自分ひとりしか客がいない状況というのも困る。
ひとつの店にあんまり長居するのも気が引けるので、だいたい2、3時間でその店は出て、別の店に移る。気が小さいだろうか。
ファミレスに長居する人もいるが、ぼくは、ちょっと遠慮したい。何人かでボックス席を使うのならいいのかもしれないけれど。
そこで、本とノートをバッグに詰めて、両国、錦糸町界隈を右往左往することになる。
ファストフード店では、両国と錦糸町のモスバーガーをよく使う。
両国のモスは、ルネサンス(スポーツクラブ)に近いから、帰りに寄れるのがいい。
錦糸町のモスは、以前は座り心地が合わなかったけれど、改装してから使いやすくなった。また、喫煙席だけがガラス張りの小部屋に区切られていて、煙が店内に入ってこないから、タバコを吸わないぼくには都合がいい。
両国駅前のベッカーズに行くこともある。
ここは開店時間が早いから、休みの日に、まず遅めの朝ご飯をここで食べつつ、しばらく新聞など読んでから、別の店に移るというパターンが多い。ついでに閉店時間も早いから、仕事が終わってから長居するわけにはいかないけど。
むろん、ファストフードのチェーン店よりも、本当は個人営業の喫茶店のほうがいい。
両国駅の近く、それから北斎通りの錦糸町寄りのあたりに、気に入った店がある。
が、大抵、こういう店は、夜の7時や8時で閉まってしまう。
そんな時間に喫茶店を出ると、お酒を飲むのにちょうどいい頃合いになっているから、今度は赤提灯の誘惑との戦いになる。
ファストフード店で、ふと顔を上げると、周りの席が全部カップルだったりする。
この前など、露骨な音を立てていちゃついている人たちがいた。
一瞬、自分は何をやっているんだろうと思う。
が、そんな過酷な環境だからこそ、集中できるという部分もある。
今年はシンプルな生活をしよう、なんて言った舌の根も乾かぬうちに、また余計なものをあれこれ買ってしまって自己嫌悪の夜です。
某デパートでワイシャツ福袋、5枚入って5千円。首周りが合えばお買い得ですよ、なんていう言葉につられて買ったはいいけど、確かに首周りは合うが、裄が合わない。
5枚のうち、サイズ的にも柄的にも、普通に会社に着ていけそうだなというのは1枚。
会社に着ていくのは抵抗あるけど、仕方ないから普段着にでもするか、というのが1枚。
真っ黒のドレスシャツなど、いったいどういう場面で着ればいいんだ。
袖の長さが短くてどうしようもないのは、人にあげることにした。
ま、普段なら、バーゲンでワイシャツを買うときでも、さんざん悩んで売場を行ったり来たりして、清水の舞台を飛び降りるような覚悟でようやく安いのを1枚買うようなぼくには、所詮は福袋など向かないのだということを再認識した次第。
黒門亭の話の続き。
配られていた演目によると、林家時蔵さんのネタは「新聞記事」。
どんな噺なんだろう、と思っていたら、あれ、似たようなのを前に聞いたぞ。
これも年末に、たまたま、桂ざこばさんの演る「阿弥陀池」の録画を見ていたんだけど、後で調べたら、この「新聞記事」ってネタは上方の「阿弥陀池」を改作したものなのだそうだ。米屋が天ぷら屋だったり、柔道が剣道だったりと、いろいろ違っている。
「阿弥陀池」の「糠に首」ってのも、改めて思えばエグイ表現だけど、ざこばさんの勢いとハチャメチャさに圧倒されて、それどころじゃなかった。
「新聞記事」は、もっと、さらっとしてますね。天ぷら屋だから「挙げられた」ってのは、ちょっと軽すぎるんじゃないかと思うくらい。
そういえば、1日目に思ったんだけど、最初、時蔵さんが口を開いて、その口調というか、声の出し方が、ごく普通の人が語り出したような意外さがあった。下手とかそういうことではなく、いかにも落語ですというようなデフォルメがされていないということ。
錦平さんの後だったから、余計にそう感じたのかな。でも、それが粋な感じもしたし、もしかしたら大ネタの間を軽く繋ぐ、という演出もあったのか。
トリ、橘家文左衛門さんのネタは「らくだ」。
このネタも、もとは上方のものなのだそうだ。というか、らくだといえば、六代目笑福亭松鶴の十八番、という耳学問があったから、東京でもやるということを知らなかった。
むろん、実際に聞くのは初めて。そうかそうか、これがあのカンカンノウが出てくる噺ね・・・。
しかし文左衛門さんの威勢の良さっていうか、らくだの兄貴分の凄み、なんだかやたらキャラがはまってますね。一瞬、本業の怖い人みたいです。「芝浜」の魚勝だったら、威勢がいいってことで済むんだろうけど、とっくに威勢の良さを超越してます。
また、好きな噺家さんができてしまった。
どんな人なんだろうと、検索して調べてみると、この人、前名の橘家文吾時代に、TBSテレビの「ヨタロー」に出てたって? あの番組、結構見てたんだけどなあ。
それから「全日本焼きとん愛好会」の会長だって? それにこの会、なぎら健壱が名誉総裁? 今も活動やってるのか?
お酒好きなんですね。「芝浜」も「らくだ」もよかったです。
ところでぼくは、「芝浜」聞いた後に飲みに行って、「らくだ」の後はまっすぐうちに帰った。逆か。それともこれでいいのか。
全日本焼きとん愛好会
http://www.geocities.co.jp/Foodpia-Olive/4936/index.html
黒門亭に新年早々、林家錦平さんが出演するというので出掛けてきた。
1日目、息せき切って着いたら、前座はもう終わっていて、入船亭遊一さんの落語が始まったところ。ちなみに、この日の前座は林家たけ平さんだったみたい(名びらが見えた)。
多分、もう1、2分でも早く着いていれば遊一さんも最初から聞けたんだけど、そんな状況だったもので、落語を聞く態勢に入るのが遅れて、あまり集中できないうちに噺が終わってしまった。申し訳ない。ネタは「悋気の独楽」。
さて、その次がいきなり、錦平さんの出番。
某落語情報誌(ってたってひとつしかないが)によると、2日目の錦平さんのネタが「木乃伊取り」って書いてあって、1日目のほうには何にも書いてないから、だったら2日目とは違うネタをやるんだろう、と思って行ったら、この日のネタが「木乃伊取り」。この噺は去年の独演会でも聞いたけど、まあ、コンパクトにまとめたという感じでしょうか。
次、林家時蔵さん。まくらで言ってたけど、この人は両国の育ちで、両国小学校に行ってたんだって。ネタは、なんていうんだろう、「彦六伝」とでもいうのかな。師匠の林家彦六や兄弟子の林家木久蔵師たちをめぐるエピソード。
トリは橘家文左衛門さん。ネタは「芝浜」。8時までに終わらせないと、なんていいつつ、しっかりと演ってくださって、実はぼくは「芝浜」って聞くの初めてで、すっかり引き込まれてしまった。終わったら8時半。
2日目。やっぱり今日も開演時間には間に合わない。ただ、マシだったのは、着いたらまだ前座さんの噺の途中だったこと。この日の前座は円菊師匠の弟子、古今亭菊六さん。ネタは「初天神」の飴を飲み込むくだりまで。
入船亭遊一さんのネタは「権助魚」。田舎者の飯炊きの権助が出てくるわけだけど、前の日に聞いた錦平さんの「木乃伊取り」の権助とキャラがかぶるから、遊一さんには悪いけれど、やっぱり錦平さんは上手いなあと思う。
ちなみに2日目は全員根多出しということです。
さあ、錦平さん。今日のネタは「柳田格之進」。
たまたま、年末に部屋の片付けなどしながら、前にビデオに録画しておいた落語を見ていたら、その中に柳家さん喬さんの演じる「柳田格之進」があって。もう、掃除なんて放り出して、すっかりのめりこんで見てしまった。
そのイメージが強烈だったもので、今日の錦平さんのはどうなのかなと期待していたのだけど、さすがに黒門亭の二人目でやるには時間が足りなさすぎたか。
どうしてもビデオで見たさん喬さんのと比べてしまうのだけど、登場人物のセリフよりも説明が多いというか、あっさりと流した感じで、格之進の実直さや、番頭の嫉妬の感情が、聞いていてずっしりと伝わってこない。
例えば、格之進が切腹を覚悟するまで深く思いつめる必然性がいまいち感じられなかったし、最後に旦那と番頭のかばいあいから格之進の娘と番頭が結ばれるまでの流れがてきぱきと進みすぎて、あれれ、という違和感もあった。
全体に口調も急いていたようで、やはりこれは時間を意識したせいだろうか。
むろん、根多出しだというし、今度、この噺を改めてじっくりと時間をかけて演ってくれる機会があったら、ぜひもう一度聞いてみたい。
(多分、つづく)
年が明けると、冬物のバーゲンの季節ということになっている。
ということで、私も年始早々、都内を東奔西走しているわけです。
東奔西走ったって、西は新宿、東は北千住ですが。
洋服を買いに行っている割には地名にマイナー感が漂うが、どうもこの年になると若者の多い街に出向くのがツラくって。
例えば、去年1年間で、渋谷など何回行っただろう? グッゲンハイム美術館展には行きましたね。でも、あのときも文化村を出たら、なんとなく渋谷の街にいづらくて、そそくさと山手線に乗ってしまった。
六本木には、森美術館ができたからたまに足を運ぶけど、あれがなかったら、まあ行かないでしょうねえ。第一、夜の街が怖くって。不良とか多そうだし。
バーゲンの話だった。
身の程知らずと言おうか、ぼくは案外、洋服を買うのが好きで、うちに行くと、買ってはみたものの、どう見ても似合っているようには思えず、鏡の前でため息をついて、そのまま仕舞い込んでしまった服が山のようにある。
しかも、去年、おととしで体型が変わったものだから、着たくても今となってはサイズの合わなくなってしまった服もたくさんある。
年末、帰省するついでに、これはもう当分着ないだろ、という洋服を段ボール2、3箱につめて、実家に送った。
なかなか、モノを捨てられない性分なんですよね。
捨てなくてもフリーマーケットなどで売ってしまうという選択もあったかのもしれないけど、サイズの大きい服などは、ま、今は多少体型を戻したけれど、どうせまたいつか太るから、そのときのために取っておこうというつもりもある。
お正月は、朝からお酒を飲んで雑煮を食べて、横になっているうちにウトウトしてきて、気がついたら午後で、うっかりしているうちに晩飯の時間になって、また適当なものを食べて、そのうちに夜になったので寝る、という生活パターンで過ごした。
ある意味、正しいお正月の過ごし方ですな。
運動らしい運動は、夕方に犬を散歩に連れ出すくらいで、せっかく広い家にいるんだから、部屋の中でストレッチでもしてればよかったのかもしれないけど、寒くってそれもしなかった。その間、むろん、体重も量っていない。
そういう怠惰な生活をしていたので、東京に戻ってからも、居酒屋の明かりを見ると中に入ってみたくてたまらないのだが、バーゲンに出掛けて、これはというジャケットだのパンツだのを試着室に持ち込み、手足を通してみたものの依然厳しい現実に直面すると、今日のところはお酒を飲むのは控えておこうと思い直すことになる。
でも今夜は、ちょっとついでがあるので、佐原屋あたり覗いてみようかという気もある。だめじゃんそれじゃ。
バーゲンのほかに、もうひとつ、年が明けると寄席演芸の季節という話もあるのだが、それはまた追々書いていくことにする。
年末年始、テレビでさんざん松平健を見たせいか、どうしてもマツケンサンバが耳に残ってしまい、そのうちに、ぼくの中でそれとプロ野球の楽天とが合体して、楽天サンバになってしまった。今も頭の中で流れている。オーレー、オーレー、楽天サンバ。
楽天はモーニング娘など起用せずに、楽天サンバを球団歌にすればよかったのに。
そんなことを思って、念のためgoogleで検索したら、そういう曲、どうやらホントにあるらしい。やっぱりみんな、考えることはそう変らないということです。
ホークスの球団歌といえば「ダイヤモンドの鷹」ですが、ソフトバンクになったら、この歌はどうなるんだろう。
念のため補足しますと、福岡ダイエーホークスの球団歌は「ダイヤモンドの鷹」(演奏:竜童組)。よくダイエー店内で流れていた「いざゆけ若鷹軍団」は応援歌。こっちのほうは、報道を見る限りは、歌詞を一部手直しして、そのまま使うみたいだけどね・・・。
ダイヤモンドの鷹、結構好きだったんだけどなあ。今もぼくの携帯の着信音はダイヤモンドの鷹のイントロにしています。
この歌のほうが、「いざゆけ若鷹軍団」より手直しするのは簡単そうじゃない。主旋律で球団名を言ってないから、コーラスの「ふっくおか、ダイエーホークス」という部分だけ差し替えればいいし。
東京に戻ったら、年末に頼んだ応援歌CD「2004 Fukuoka Daiei Hawks」が届いていたが、このCDからして、球団歌と応援歌を取り違えている。
帯に「球団歌・応援歌を含む」って書いてあるから、お、ダイヤモンドの鷹も入っているのかなと思ったら、いざゆけ若鷹軍団がアレンジ違いで3曲入っているだけ。
おととい、実家で晩飯を食いながらNHKのニュースを見ていると、たまたま、去年のホークスのドラフト1順目、三重県の宇治山田商業高校の江川選手の特集を放送していた(ローカルニュースだから東京では放送してないと思うけど)。
その中で、去年行われたホークスの新入団選手発表の模様をちょこっとだけ流していて、会見場への選手入場の際の音楽が、ダイヤモンドの鷹だった。
そうかそうか、この曲をこうしてテレビから聞くのも、もしかするとこれが最後くらいかもしれないなあ。なーんて思うと、妙にシミジミとしてくる。
そういや、この江川って、野口みずきの後輩らしいぞ。おんなじ高校なんだ。ふーん。
「FDH」最後の新入団発表
http://www.nikkan-kyusyu.com/cgi-bin/vi/view.cgi?jl=da&id=1102597445
新年おめでとうございます。
ゆうべ、午後8時過ぎに黒部駅を出て、長岡周りで東京に戻ってきた。
最初は、ホントにこの乗り継ぎで東京に帰ってこられるのかな?って思ってたんだけど。
というのは、切符を見ると、特急北越の長岡着の時刻が、21時43分。
東京行き最終の新幹線の長岡発の時刻が、21時42分。
切符に書いてあるとおりに電車が動いたら、ぼくは長岡で足止めじゃないですか。
長岡に身寄りはないし、どこかホテルでも探すか、それこそ仮設住宅にでも泊めてもらわないといけない。不謹慎ですかね。ゴメンナサイ。
ただでさえ間に合わないのかもしれないのに、地震の影響のために特急が柏崎と長岡の間でかなり減速したせいで、長岡着が時刻表の定刻より随分遅くなった。
結論からいうと、長岡駅で接続の新幹線がずっと待ち合わせをしてくれていたので、無事に乗り継いで東京に戻ってきたわけです。
新幹線は発車時間を過ぎてから15分以上も待っていたらしい。なんだか悪い気もする。
といっても、遅くなったのは、ぼくのせいではないから致し方ない。
長岡までの特急は帰省シーズンがウソみたいにガラガラだったが、さすがに新幹線は満員だった。最終電車ということもあるのだろう。
上野駅からタクシーに乗って、部屋についたら12時を回っていた。
この時間の電車で東京に戻ってくると、駅からうちまで歩く気力はないし、いつも上野駅からタクシーに乗るのです。もう少し早い時間だったら、御徒町から都バスに乗ってもいいんだけど。
駅前の交差点でタクシーを拾って乗り込んだら、運転手さんが「外はだいぶ寒くなりましたか」と聞いてきた。
そんなことを聞かれても、こっちは今、上野に着いたばかりでよく分からないのです。
ともあれ、ゆうべのタクシーの運転手さんは、決して馴れ馴れしくはなく、それでいて程よい間合いで話しかけてくれてよかった。あんまり無愛想というのも気詰まりだし。
降り際も、「お風邪をひかないように」みたいに声を掛けてくれて、ひとり、この東京砂漠に着いたばかりのぼくの心に、気持ちのいい余韻を残してくれたのだった。
その程度のことで気分がだいぶ違うんだから、心配りとかサービスってのは大事ですなあ。
うちに帰って、少し片付け物をしたりして、ベッドに横になったのは1時くらいだったけど、なぜかすぐに寝付かれず、何度か布団から出たりまた入ったりして、結局、ウトウトし出したのは3時を過ぎた頃だったと思う。
おかげで今朝は、圧倒的に寝が足りないのです。
あの、すいません、今日の話はオチがないですから。言っときますけど。