今度はイヌ年ですから、うちの犬の写真でも貼っておきましょうか。



このページを2005年にご覧になる方は、よいお年をお迎えください。
2006年にご覧になる方は、本年も宜しくお願い申し上げます。
ハマトリもいいがBankART Lifeも見に行かないと。
そう思って、まず馬車道のBankART1929を覗いたら、ブックフェアをやっていた(もう3週間程前の話だ)。
美術関係の本や雑誌を取り扱っている出版社やギャラリーなどが、BankART1929のホールにブースを出して、自分たちの本を即売している。
といっても、そんなに大きなブースじゃないですよ。お祭りの屋台くらいなものか。そこに、店番の人がひとりかふたり、ちょこんと座っている。そんな小さな本屋が、ホールの中にぎっしり並んでいた。
こちらは別に本を買うつもりで来たわけじゃないから、適当に冷やかしながら歩いていると、一軒、奇妙な古本屋が目にとまった。
どう奇妙かというと、その店の売り物の本は、すべて、封をされた紙袋の中に入っていて、袋の中身を外から確かめることができない。
なんだろうと思って店の前で足を止めると、箱の中からクジを1枚引くように促された。クジには4桁の数字が書いてある。本が入っている紙袋にもあらかじめ4桁の数字がスタンプしてあって、お客さんは、引いたクジと同じ数字の本を一冊買うことができるというわけ。実は、この4桁の数字は西暦で、包まれている本の出版年なのだとか。
ものは試し、やってみましょうか。
ということで、出てきた数字が「1982」。
何冊かあった「1982」の本のなかから、ぼくが選んだ1冊が、これ。まだ、封を開けてません。

せっかくなので、今、封を切ってみましょう。どんな本が入っているのかな?

沢村貞子「わたしの茶の間」だって。
art x book fair (PDFファイル)
http://www.h7.dion.ne.jp/~bankart/whatsnew/images/bookfair.pdf
ブックピックオーケストラ
http://www.super-jp.com/bookpick/

ハマトリ最終日の堀尾貞治さんのパフォーマンスの際に観客に配布されたチョーク。
堀尾さんがナカニワいっぱいにバケツの水で「ありがとう」と書き、流れた水の輪郭を観客みんなでチョークを持ってなぞるというもの。私もなぞらせていただきました。そのかけら。

アン・ハミルトンの作品「ライン」で実際にクライマーが使用していたロープの一部。
最終日のパフォーマンスを見ていたら、スタッフの人が売りにきたので思わず買ってしまった。1本300円。前日まで使っていた本物だっていうけど、まあ、信じるしかないか。
ロープに巻いてある紙は、この作品のためのスケッチの複製だとか。

ミゲル・カルデロンの作品「ロダン」に使われていたトイレットペーパー「ロダン」(本物)
先日のZAIMでのトリエンナーレ作戦会議Vで配っていたのでもらってきた。
って、これも本当に本物なのかなあ。信じるしかないけど。
堀尾貞治+現場芸術集団「空気」
http://www.yokohama2005.jp/jp/H.php#4
アン・ハミルトン
http://www.yokohama2005.jp/jp/H.php#1
ミゲル・カルデロン
http://www.yokohama2005.jp/jp/C.php#1
彩色されたレリーフは、だまし絵のようにも見える。
どこからどこまでが平面で、どこからどこまでが立体か。その見極め、切り分けが分からなくなり、慌てて近づいて確かめる。
わずか数センチの板の上に現れる薄っぺらな現実だが、われわれの生きているこの現実も、あるいはそういうものかと思う。
すべてが舞台装置、大道具のようなものかも知れない。
彫刻された木の表面を伝って、ひび、裂け目が突如現れる。
裂け目がこのまま広がれば、いずれこれらの作品はバラバラに断裂するのだろうか。
すべての木は緩慢な死にむかう。不意にイメージが早送りされ、一本の木の突然死が頭に浮かぶ。
そもそも、なぜ木は裂けるのかと思う。ともすれば、最初から居心地の悪い同居人にすぎないのか。
雷の一撃が猶予期間を帳消しにすることもある。荒々しい鑿の跡は、雷撃の喩えか。
芸術作品としての外観が、木塊に与えられた仮の姿とすれば、仮装された永遠の命に忍び寄る断絶は、内在し、内包されたものだろう。
作家は作品とすることでそれをあえて明らかにする。
われわれの人も街も、そのようなものであった。すべては仮の宿りか。
そしてそれを裂けるがままとする。
シュテファン・バルケンホール|木の彫刻とレリーフ(東京オペラシティアートギャラリー)
http://www.operacity.jp/ag/exh66/index.html

トリエンナーレ作戦会議Vのメモ
川俣氏、トリエンナーレはなぜ同じ日にやらないのか(同時期に開催しないのか)と提起。世界一周トリエンナーレ、ビエンナーレツアー。
アーティストは夢があっていいですね、と加藤氏。
加藤氏曰く、「シティアート」は、地域のお絵かき教室的芸術活動や、また日展に代表されるヒエラルキー型のアートとは違うという。
地域のお絵かき教室的芸術活動と、ここでいうシティアートには、本質的な違いがあるのだろうか、あるとすれば、それはどこにあるのかと、ふと疑問。
確かに地域のお絵かき教室的アートは、圧倒的にツマラナイものが多いが(私の偏見)、逆に面白ければいいと思うし、結局はそれが面白いかどうかで分けるしかないのではないかと思うのだが。
都会も地方もそうだと思うけれど、60近くなってヒマになったおじさんおばさんが、お絵かき教室的な活動に参加してますね。
市民活動とアートの結びつき・・・。現実のほとんどはものすごく圧倒的につまらなくて、そのお題目との距離が。
だから、「あなたの作品はツマラナイですよ」とおじさんおばさんたちに言って、それで大議論なり大喧嘩になったりしたら、それはそれで面白いけどねえ。
そもそも、30代40代50代のサラリーマンとか主婦の人たちって、まず現代美術とか見ないですね。みんなそれぞれの人生で忙しいんでしょうが。それが、60近くなっていきなり老後のイキガイとか言ってお絵かき教室に通いだすとは。
このへんの距離を埋めるのは、かなりの難題のような気が。
黒田氏のいう、観客(=描かれる人)が目の前で作家が変化していくのを目撃することができるのが似顔絵というのは面白いねえ。
子供がよろこぶ場所はいい場所、というのはいいですね。とりあえずそこから囲い込むということだ。横浜美術館もがんばりましょう。
今回のトリエンナーレは、会期を通してかかわっている作家が多い。ディレクターの川俣氏はじめ、堀江氏、黒田氏など。まさにアーティスト・イン・レジデンスというわけだが。
美術手帖のトリエンナーレ特集号に出ていた、飴屋法水氏の記事のことを思い出したぞ。
サポーターの数が、最初は800人とか言っていたのが、最終的に実際に活動していたのは100人くらいだったんだって。多いのか少ないのか。私は、案外少ないんだなと思った。
アートと行政、市民についての話を聞いていて、ふと亡命政府という概念が頭に浮かんだ。例えば黒部市亡命政府。臨時首班ワタシ。とか。
場所はウェブサイトでいいわけだ。で、そこでトリエンナーレをやる。
第1回黒部トリエンナーレ。略称クロトリ。勝手にディレクターやらキュレーターを決めて、作家をアサインする。いや、私がキュレーターだ。
国際展なのに外国のキュレーターがいないという批判。すっかり気が付きませんでした。
磯崎新氏が急遽ディレクターを降りたという話。確かに、横浜市民はどの程度自分たちの問題として切実に感じていた(いる)のか。私などは、遠い場所、遠い先の話として聞き流していたような記憶があるが。詳しくは知らない。行政評価、アカウンタビリティーの観点からも、もっと詳らかにされるべき問題だろう。
トリエンナーレのディレクターを決めるのは組織委員会ということになっているが、組織委員会の中で、国際展のノウハウがあるのは国際交流基金だけで、交流基金の理事長の鶴の一声で磯崎氏に決まったとか?それもどうか。
作戦会議、という名称が。なんで戦争のメタファーになるんだろう。ふと思ったこと。
そういえば、だ。ここで書いておこう。横浜トリエンナーレ、略してヨコトリなのか?ハマトリなのか?
横浜スタジアムは、ヨコスタじゃなくて、ハマスタでは。FM横浜は一時期、ハマラジと言ってたでしょう。
今回の作戦会議でも、ヨコトリという言い方がされているが、ハマトリのほうがいいと思うんだけどなあ。改称望む。
行政に対して、市民が意見・苦情を伝えるにあたって。
ZAIMのボランティアの若い人が、どこに意見を言っていいか分からない、窓口をつくって欲しい、と言っていたことに対して、川俣氏が一喝していたが。確かに甘ったるい発言ではあるね。本当に言いたいこと、やりたいことがあるのなら、どこに言えばいいかくらい、自分で探さないと。
そうした市民の意見、苦情の受け口の機能は行政が担ってきたわけだが、行政に任せすぎて吸収されてしまうという現状。
市民による合意形成の基盤(場、仕組み)づくりの課題。
でも、それって「議会」っていうんじゃじゃないの。行政や議会が機能していないという現状。
土建屋みたいな議員がハコモノ作りで利益を分配しているような感じだものね。地方議会は。横浜市は知らないけど・・・。文化的な公共事業、文化行政について議論する場になってないわけだ。議会が。
会場からの意見で、横浜の中心商店街がハマトリに対して冷めているという指摘。2001年のトリエンナーレに対して、あそこは横浜じゃないよ、あそこは埋立地だよ、って言ってたんだって。今回はどうなのだろう。
2001年のトリエンナーレの結果から学んだこと、継承したことはあったのだろうか。
そして今回は、というのが、今回の作戦会議の論点であったわけだが。
まあ、4年も経つと忘れちゃうね。2001年のオノ・ヨーコの作品がしばらく残されていたのが、そのうちキモチ悪いって言って撤去されちゃったというけど、どんな作品だったかすっかり忘れてしまっていた。
うちに帰って図録見直して、あれか。あの貨車の作品か。
今回のトリエンナーレでは、ルック・デルーのコンテナの作品が残されるのだろうか。
12/22 トリエンナーレ作戦会議V <市民シンポジウム>開催!
http://www.ycan.jp/archives/2005/12/v.html

リュレンツ・バルベー
http://www.yokohama2005.jp/jp/B.php#1
リュレンツ・バルベー「NAUMAQUIA(ノウマキア)YOKOHAMA2005」18日(日) 12時開始!
http://www.yokohama2005.jp/jp/event_news.php#NAUMAQUIA
白いキャンバスは自明のものとして与えられているのか。これは一種のレディメイドではないかと思う。画材店でキャンバスを買ってきて、それをそのまま美術作品として展示したっていいだろう。それなら、作家のひと筆はモナリザの髭?
キャンバスに白く地塗りを施す人(機械?)と作家との距離は?あるいは、これは一種の注文芸術?
キャンバスがキャンバスとなり、鉄板が鉄板となるまでには、それ自体、かなりの人為が加えられている(サムスンの特別協賛による鉄とは何だろう?)。
人為と自然の対比という解釈?・・・一面そのようであり、その解釈が正しそうに思えて自分で頷くが、そうでないようにも思えて、すぐに解釈を取り消す。
会場内に散在する作家のテキストから、ふと目に付いた言葉。
日英対訳されている、“purify”は「浄化」なのか。さまざまな、それに代わる訳語を考えてみるのだが。「洗浄」「清浄」「純化」等々・・・。どれもしっくりしない気がして、その二語の間にとてつもない距離があるように思えて、うんざりする。
芸術の永遠性(という仮構)。人為と自然のせめぎあい。作品は時間の経過とともにボロボロになり、「一万年も経てば」おそらく消滅する。
そこにデジタル化された作品を対置してみる。デジタルメディアが半永久的な寿命をもつというのはおそらく幻想で、何年もつか確かめた人はいないし、それを見届けることもできない。そもそも、遅かれ早かれ、消滅することは確かなのだ。
銀座のギャラリー58に美術家の池田龍雄さんのお話を聞きに行ってきた。
「池田龍雄と語る夕べ」と題した月1回の連続講演の企画、今回をもって最後とのことだが、私は今回が始めて。今回のテーマは「戦前と戦後・瀧口修造の位置」。
美術史家の小沢節子氏との対談形式で行われた。
まず小沢氏による瀧口修造についての基本的な情報の紹介。
1940年代を折り目にして30年代と50年代、さらには20年代と60年代の瀧口の活動が重なり合うのでは?という小沢氏の考察。
これを冒頭で何度か繰り返していて、確かに面白い見方かもしれないけれど、まあ、そういわれればそのように見えないこともないなあという程度にすぎないようにも思えるのだが。形式が先に来て、実体をそれに合わせていくような感じ。あまりとらわれることもないように思う。
戦前の弾圧について。
治安維持法が、条文では死刑も規定されているが、実際に死刑が執行された事例はないというのは意外な気がした。
むろん、有名な小林多喜二のように拷問死した場合もあれば、獄死した人もいる。が、国家権力が不穏当な思想の転向を強く迫ることに本質があるのだろう。
転向すれば(=不起訴処分となれば?)保護観察下におかれる(起訴は1割という)。
そのような法律であればこそ、思想家にとって転向とは?というテーマがくっきりと浮かび上がってくる。
もうひとつの見方。
亡命しなかったから転向した、亡命していれば転向しなかった?
ブルトンはメキシコ、そしてアメリカに亡命した。
瀧口は亡命しなかった。あるいはできなかった?
もっともアメリカに行くわけにはいかなかったのだろうが(収容所送り?)。
亡命者となる途が絶たれていた。
戦前、戦後を通して、日本人が思想的な背景から亡命したというケースはあるのだろうか。そもそも、いったいどこに亡命するのだろう?
戦後になってからも、瀧口は意外なほど海外に出かけていない(ヴェネチア・ビエンナーレのときと、フィラデルフィアに行ったときの2回だけ)。
戦前から海外に渡航していた日本人芸術家も多いのに。これは純粋に経済的な理由なのだろうか。
海外渡航者に贈られたリバティパスポート。これも、亡命不能者としての瀧口という視点から考えてみるとどうだろう。
1941年の拘留事件。3月5日に逮捕か、4月5日か。官憲の言うことは信じない、自分の記憶を信じるという瀧口。
拘留期間が7ヶ月か8ヶ月か。
一方で、ブルトンには10ヶ月拘留されていたと伝えたという。サバを読む瀧口。
瀧口の戦前の体験から、戦後の活動を見通してみる。千円札事件など。国家や権力との関係で。
興味深かった話。中核派にカンパを求められて、そうたびたびは応じられない、と池田氏に語ったという。ということは、ときどきはカンパしていたのか。
その本気度は?どの程度シンパシーを感じていたのか。それを知りたい。特定のセクトに肩入れするような印象はなかったのだが。
もっとも、それがいつごろの話かわからない。おそらく、現在あるいはぼくの学生時代の新左翼とは、思い浮かべるイメージも活動の実態も変化しているのだろう。
瀧口は同時代の政治状況にどの程度関心をもっていたのか。あるいは何か具体的にコミットするようなことはあったのか。
あるいは、当時の若い美術作家たちは?
池田氏の口からは、1955年の再軍備を風刺した自作の話も聞かれた。1955年の動き。花田清輝の「コロンブスのタマゴ」論も55年。55年体制。
当時の花田清輝の存在感というのがわからない。池田氏は、瀧口より早く花田の著書に触れて、影響を受けたというが。
当時、美術家と左翼活動家が、響きあうものはあったのか。
瀧口に「アクチュアリテの中を通す」という言葉もあったように思うが。その政治的解釈は?
(ふと思ったこと。時代は下るが、秋山祐徳太子の都知事選立候補も、アーティストの政治活動という文脈で見ることができるのだろうか?シリアスすぎる見方だろうか)
当時の反安保、そして反万博の運動。実験工房の流れの作家たちも多く大阪万博に関わるわけだが、当時の作家は、あるいは瀧口は万博についてどう考えていたか。
ギャラリー58
http://www.gallery-58.com

「いわゆるおでん屋」の話で思い出した。
そういえば、ついこの間、野毛でおでんを食べたんだ。あの店は「いわゆるおでん屋」といってもよさそうだ。
最初に入ったのは、野毛の飲兵衛ラリーに出かけたときだ。
飲兵衛ラリーは何回か開催されているようだけれど、ぼくは一度しか参加したことがない。第何回になるのか、とにかく、東急の桜木町駅が廃止になるという、その晩だ。
不意に出かけたのはいいけれど、実は野毛の街を歩くのも初めてだし、かなりいい時間になっていたから、もう明かりを消している店もある。
知らない街で、どの店にも入りそびれているうちに、飲み屋街の外れのほうまで歩いてしまった。体もすっかり冷えたところで、最初に入った店が、このおでん屋だった。
カウンター7、8席ほどの小体な店だ。テーブル席はない。あるいは、奥に小上がりでもあるのか、そこまではわからない。さすがに飲兵衛ラリー参加店だけあって、お客さんが入っている。カウンターにひとり分の席を空けてもらった。
カウンターの中にはマスターがひとり。年齢不詳、ひと癖もふた癖もありそうな雰囲気だ。
飲兵衛ラリーでは、ブリーズベイホテル前の受付で何枚綴りかのクーポン券をもらって、ラリー参加店でその券1枚を添えて500円を払うと、ラリーメニューのお酒とおつまみが出る。
この店で、おでんでビールか何か、飲んだんだっけ。
その後は、意を決して他の店にもどんどん入って行った。
夜中の12時半頃だったか、東急桜木町駅最終電車の発着前後の大騒ぎを見て、また野毛町に戻り、結局、その晩はジャズバーで朝まで過ごした。朝帰りの横須賀線の中でうとうとしたのがいけなかったのか、風邪をひいてしまったのは余計な話。
あれからしばらく、横浜には縁遠くなっていた。
先日、横浜トリエンナーレを見に行った帰り、せっかくだから横浜で一杯やっていこうと思い立った。11月初めくらいの金曜日だったか。ハマトリは毎週金曜日だけは午後9時まで開場している。
もっとも、横浜の飲み屋街なんて、ぼくは野毛しか知らない。マリンタワーの前からバスに乗って、野毛で降りた。
それで、結局、例のおでん屋に入った。屋外の展示を見たあとで体も冷えていたし、一度入ったことのある店は気安いということもある。
週末というのに、案外、客が少ない。連休の中日ということもあるのだろうか。カウンターの奥に二人。手前側にも一人いたが、ぼくが来てしばらくして帰った。
お店には悪いが、空いていて、逆に、こちらは少しほっとする。
適当におでんを頼み、お酒を2本ほど飲んで、錦糸町に帰った。
こうなると、ハマトリを見た後は、条件反射的に野毛でお酒を飲みたい気分になってくる。まあ、そういうほど何度も行ってるわけではないけれど、実は先週もハマトリに行った帰りに、野毛まで足を伸ばして、お酒を飲んだ。
これも、もう習慣みたいなもので、まず、例のおでん屋を覗く。
お、今夜はお客さんが入っている。
L字型のカウンターの、入口に一番近い、角の席に腰を下ろした。奥にスーツ姿の二人連れ。ぼくの左隣は、スーツは着ていないし若い人かな、と一瞬思ったけど、後でちらりと横顔を見ると、そうでもなさそうだ。ぼくを挟んで角の右側にも、サラリーマンらしい客がひとり。
みんな常連のようだ。奥の二人とぼくの右手の一人は、カウンターの対角線上に、ボーナスのことやらお互いの商売の景気のことやら、何かしら言葉を交わしている。
そのうち、マスターがカウンターの外に出て、レコードを掛けた。洋楽にうといぼくには、誰の曲か分からないけれど、昔のR&Bだ。
音楽が流れ出すと、両脇のスーツ姿のお客さんが、曲に合わせて軽く体をゆすったり、片手でリズムを取ったりしているのが、少し可笑しい。ただのサラリーマンじゃないぞ、ということを言わんとしているようにも見える。
店の中を見渡すと、ライブカフェ「ストーミーマンデー」のスケジュール表とライブの告知。映画「ザ・ゴールデン・カップス ワンモアタイム」のポスター。
壁際にはCDとレコード。書籍、特にミュージシャンの書いた本。
こんな書き方をすると、スノッブな雰囲気の店に思われるかも知れないが、決してそうじゃない。全体の雰囲気は「いわゆるおでん屋」なのだ。
こういうのが横浜なのかな、と、ほろ酔いの頭で思う。
奥の二人連れの仲間とおぼしき客が入ってきて、カウンターの対角線上の会話がいっそう賑やかになった。ぼくは常連たちの間に挟まれて、少しお邪魔のような感じだ。
飲み足りないけど、このあたりで腰を上げようか。

ある友人(居酒屋マニアではない)に連れられて中野で飲んだ。初めて入る店。
店の入口で、バイトらしい若い店員が、靴を脱いで玄関のロッカーに入れるように言うので、ちょっと腰が引けた。こういうのはチェーン店系の大型店でよくある作りじゃないだろうか。
玄関は狭く、すぐ目の前が階段なので、あまり店の中は見えない。店員に言われるまま、階段を上がって2階に通された。
おどろいた。畳敷きのお座敷のふすまをとっぱらってできた空間に、二人が差し向かいになれるくらいの大きさのテーブルがいくつか、程よい間隔で置かれている。室内の照明はまぶしからず暗すぎず。
結構いい趣向じゃないか、と思った。このお座敷とは別に、6畳ほどの部屋も2、3間あって、そこにはテーブルと座布団ではなく、ソファーがしつらえてあるようだ。
要するに、古い木造の民家(というにはいささか広すぎるようにも思えたけれど)を一軒丸ごと居酒屋に改造してあるのだ。
そして、そこで魚料理を食べさせるのである。
さすがに中野だけあって、若い客が多いせいか、どれもそんなに高い値段ではない。
メニューを見ると、中には一匹3千いくらのノドグロだの、千いくらのナントカだの、そういうのも載っているけれど、大抵は一品5百円前後。
釣りあなごの天ぷら、鮮魚のあら煮、かれいの煮付けなどを頼んで燗酒を飲んだ。まだ週の真ん中なのに、お酒が進んで困る。友人は何品かお刺身を頼んでいたけれど、こういう料理にしたもののほうがいいね。
学生や若い人たちが、友人同士やカップルで酒を飲むには、いい店じゃないかと思った。どこにでもあるチェーン店の居酒屋よりはずっと気が利いているし、多分、値段はそう違わない。もとの民家のつくりを活かしつつも、そこにソファーを持ち込んだり、紗幕で空間を仕切ったりする演出や、適度な照明が、スカしすぎない、いいセンスを出していた。
ただ、まあ、ひとりじゃあ入りづらいなあ。1階にはカウンター席もあったけれど、わざわざ靴を脱いで上がるのはどうも。
ICCのPossible Futures展に行ってきた。
てゆうか、実際にはまだ展示の半分も見ていない。
いやいや。なんだかこの週末はぐったりと疲れて鬱々とした気分で。
まあ天気も悪かったですけど。
それでも、この日はせっかくキュレーターの解説があるというので、おんなじ入場料を払うんなら、タダでそういう話を聞けるほうがいいだろというセコイ私は、いそいそと初台まで出かけていった次第なのですよ。
展示を半分も見てないというのはどういうことかというと、キュレーターの住友氏のお話がギャラリーAの展示をざっと流したところでおしまいになって、まだギャラリーCもBもあるのに、そこで放流されてしまった。
えー、これでおしまいなの、という気持ち半分。
もう半分は、前述のように、この日の私は冒頭からなぜかお疲れ気味で、これだけ見ただけでもう気力の限界。開放されてホッとした、という気持ちもありました。今日はもういいや。残りはまた来よう、という気分になってしまっていたのです。
もっとも、ギャラリーAのお話が終わった時点で、すでにほぼ1時間近くも解説をしていただいている。このペースで最後までやったらどれだけ時間がかかるか分かったもんじゃない。まあ、仕方ないです。
ICCの5階に上がる階段からギャラリーAの入口にかけて設置してある田中敦子氏の作品。これもよく分からないうちに次の作品の説明になってしまって、じっくり見るのはまた次回にしようというつもりでいたのだが、うちに帰って新聞社のニュースサイトを見たら、その田中さんが亡くなっているので驚いた。
なぜ今、ICCが戦後日本のメディア・アート/テクノロジー・アートの歴史を概観する展示を企画するのか。
まあ、そりゃあいろんな事情があるんでしょうが、ともあれ、表向きにはこういうお話であった。
曰く、作品の性質上、キネティックな作品は保存状態を保つのが難しく、作品を展示するにあたって、再制作の形をとらなければならないものもある。
今年は戦後60年という節目にあたる。戦後ほどなく活動を開始された作家さんたちは、まだご存命で活躍中の方もいるが、亡くなった方も多い。60年というのはそのような時間である。この機会を逃せば、今後、作家ご本人に展示に携わっていただくことは難しいかもしれない。そこで今、このような展示を企画した。
私の意訳であるが、まあ、このような説明を伺った。
今回の展示に関係している作家で、早くから活動されている方といえば、実験工房の山口勝弘氏や、今回個人名義の作品を出展している佐藤慶次郎氏(そういえばこの人の作品をこれだけまとまった形で見たのは、ぼくは今回が初めてかもしれない。なんて言えばいいんだろう。いま佐藤氏の作品を思い出して、その繊細な動く物体がぼくの胸を開けて入ってきて、永久運動のように回りはじめたような、そんなひそやかで奇妙な感覚にとらわれているのだ!)であり、もうひとりは具体の田中敦子氏だろう。
今回の田中氏の出展作品も、当時の図面から新たに再制作したものだという。
そんな話を聞いたばかりなものだから、ウェブで訃報を目にしたときは、あまりといってはあまりな符合に、しばし心は穏やかではなかった。
しかし、こんな話をしだすと、さらに縁起が悪いのだが、前に書いた、オマージュ瀧口展の会場で佐谷和彦氏にお目にかかった日。
応接テーブルを埋めたカタログを前に、過去のオマージュ展の企画について、いろいろお話を伺った中で、パリのアンドレ・ブルトン邸を訪れた瀧口修造とブルトンの出会い。第13回のオマージュ瀧口展では、この二人の面会の写真がフィーチャーされているが、その写真のことも、話題となった。
当時、瀧口に同行してブルトン邸を訪れ、二人と共に写真に写っているのは、若き日の東野芳明氏である。
フジテレビギャラリーから帰宅して、ニュースサイトを見たら、東野芳明氏の訃報が掲載されていた。
これもいやな符合であった。
みわピーさんにいただいたコメントを見て、急激におでんでお酒を飲みたくなってしまいましたワン。って何者だ俺。
さっそくgoogleで「錦糸町 おでん」とか検索してみる。
すると、錦糸町から程近い某駅近くにおでんで酒を飲ませる店があるらしいことが判明。
さっそく自転車を飛ばして一帯を捜索する。
それらしい商店街を北から南に行ったり来たり。だが見つからず。
あきらめて帰って長崎橋近くに出てる屋台のおでんでも食べて帰ろうかと大通りに出たところで、「おでん」と書かれた提灯を発見。赤に変わりかけの信号突っ切って横断歩道を渡り、店の前に自転車を止める。
2、3秒躊躇してから扉を開く。
扉を開けてすでに腰が引ける。これは「いわゆるおでん屋さん」ではない。
もっと限りなく躊躇しておけばよかった。
が、致し方なければ即ちやむを得ない。
とりあえず数品頼み、数杯飲んで店を出る。
うーむ。なかなか難しいものだ。おでんの道は。
「おでんで一杯」
なんて魅惑的なフレーズだろう。
その頭に「軽く」なんて言葉を付け加えてみる。
「軽く」「おでんで一杯」
なんて軽やかに心おどるフレーズだろう。
「おつかれさまでした」
通用口で守衛さんに一言声をかけて仕事場を出る。
昼間、ガラス越しに見ていた冬の日差しは思いのほか暖かそうだ。
が、いつの間に日は暮れたのか。夜の中に吸い出されて、風が差し込む。
「軽く」「おでんで一杯」
そのフレーズがリフレインするのだが。さあ、ぼくはどこに行けばいいのだろう?
補足:
酔いのイキオイで書いた文章ではあるが、まあ、タイトルとは関係なさすぎるな。
たまたま、とある人(著名人ではない)の訃報を知った直後に書き出したので、感傷に引きずられてしまった。直すのもアレなのでそのままにしますが。
そんな夜です。夢が見れる機械も欲しい。