小沢さんの江戸の吉原の話でした。
あとは駆け足で行きますよ。というか、もう記憶力の限界だあ。
廓(郭)ってのは、城郭のカクって書く。実際に江戸時代の吉原はお堀で囲まれていた。お歯黒どぶってやつですね。遊女が逃げられないように、ということですか。
花魁(おいらん)という字は、花に魁(さきがけ)と書く。鼻の先が欠けたからじゃないですよ。
遊女のことは娼妓(しょうぎ)とも言う。小沢さん、床机と掛けてたな。このシャレはよく聞こえなかった。それから将棋とも掛けていた。とにかく金銀がないと相手にならない、とか・・・。
野球選手が引退するとコーチになる。花魁も引退するとコーチになるのですよ。それをやり手ババアという。なるほど、やり手ババアというのは、新米の花魁に男の手練手管を教えるコーチ役でもあったわけか。
しかし、ババアといっても、まだ30歳ほどですよ。では、今のババアはどうなんだと。そういう人たちを表す言葉が、そもそもなかった。
あと、花魁が客の男に証文を出す話もしてましたね。証文が乱発されるようになると、入れぼくろですか。右の二の腕に「小泉いのち」と入れて、今度は左に「安部晋三いのち」。これでもう入れるところがなくなっちゃったから、「小泉いのち」を消して、その上から「小沢一郎いのち」と。
そのうち、花魁は自分の小指を切って男に渡すようになる。約束の指きりげんまん、というのは、やっぱりここから来たのか。ただ、小沢さんは「しんこゆび」の話まではしなかった。
それから、廓といえば、特徴的なのがありんす言葉。これは、花魁は日本中からやってくるから、青森の人と鹿児島の人では廓の中で言葉が通じない。そのための共通語という意味があったそうで。しかし、ということは、江戸時代にはそういう人身売買の(というと言葉はキツイが実際そうだろう)流通ルートが全国規模で確立していたということなのか。
あと小沢さん、どんな話をしてたかな・・・。
今週のお題は「隠居」。
にわかに心境が変わった。もっとひとりよがりに句を読もうと思う。
7月見も知らぬ鳥のかくれすむ
この夏彼女の後頭部にかくれすむ
入道雲我が精子のかくれすむ
灼熱や隠棲願望ありし我
これでは宮坂お父さんの掲示板には書けないけど、まずは経過報告まで。
結局、投句したのは・・・。
隠居気取り家族からは邪魔にされ
路地裏に名も知らぬ猫のかくれすむ
またいつものことだ。調子に乗って長々と書き始めたのはいいけど、だんだん息が切れてきて、結局は尻切れ。
まずは、このように自己嫌悪しておいて。
あれから1週間以上も経ってしまいました。小沢さんの大銀座落語祭出演から。
すでに記憶もかなり断片化しつつあるのですが、最後に、もう少しだけメモの棚ざらえをしておきましょう。もし、どなたでもこれをご覧になっていて、私の記憶に誤りがあれば、ご指摘をいただければ幸いです。
そういえば、今回の小沢さんの話を聞いていて、はたと膝をうつことがあった。
確か、この大銀座落語祭の前日?だかに小沢さんは熊本で宿泊していたというのですよね。そして、その小沢さんの熊本の定宿の向かいに、かつて豪壮な木造の楼閣があって、以前、それが取り壊されていくさまを見ていて悲しかった、というお話をされていましたよね。
その楼閣の名前が東雲楼。そう、「東雲節(ストライキ節)」の東雲。
この歌については、小沢さんのCDに収められているのを聞いたりして、すでに耳なじみだったはずなのだけど、今まで、ぼくはぼんやりと聞き流していたのだろうか。
東雲節の中で歌われている娼妓のストライキの舞台こそが、熊本にあったその東雲楼という楼閣で、かつて小沢さんは、それが取り壊されていくさまを見つめながら嘆息していた。
一瞬のうちに、どこかで聞きかじっていた、ばらばらの物語がひとつにつながって、そうかそうか、そうだったのかと、ぼくは、蒙が啓かれるような思いで、小沢さんの歌う東雲節を聞いていたのだ。
さっそく、東雲節について検索してみた。勝手にリンクを張らせていただく。
東雲節考
http://homepage2.nifty.com/tanosiki/v-enka-sino1.htm
働く女性と法の百年 東雲楼のストライキによせて
http://www.yuhikaku.co.jp/shosai/20c/19991202.html
前者のリンク先に引用されている添田唖蝉坊や知道(さつき)等の文章を読むと、もともとの「ストライキ節」は、救世軍の自由廃業運動に影響されて作られた歌ではあるが、実際のストライキ事件のことを歌ったわけではなく、歌詞にも東雲という言葉は出てこない。
それが、おそらく時系列的には「ストライキ節」成立より後のことだろうが、ほぼ同時期に起こった東雲楼でのストライキと重ねて伝えられる中で、いま小沢さんが歌うような東雲節に変化していったということなのだろうか。
後者のリンク先は、東雲節について触れたものではなく、東雲楼のストライキを起点にした考察だが、ぼくだって、はるか昔は法学部生だったはずだから、労働法の教科書をナナメ読みしたことくらいはあるはずなのだ。もう少しマジメに勉強していれば、東雲楼のストライキに別の経路で出会っていたかもしれなかったのだろうに。
いずれにせよ、当時の演歌(というより、あるいは添田唖蝉坊という個性に負うところが大きいのか、どうなのか)の社会性を改めて認識するとともに、地方のいち楼閣での出来事が、演歌を介して全国に広まっていった、その力とスピード感に驚かされるのだ。
まあ、これ以上続けると、大銀座落語祭での話からどんどん逸れてしまうので、このへんにしておくけど、添田唖蝉坊・さつき親子の仕事は、もっと、もっと追いかけたいと思う、今日この頃なのですよ。
(つづく)

以下「向島のはじまり〜森の記憶 町の記憶〜」にて
梅雨晴れ間我関せずとあくび猫
梅雨晴れて自称詩人のひるねかな
草むらに父と子捕虫網踊る
梅雨雲に紅白提灯宵を待つ
木母寺や少女は口寄せ蚊を叩く
梅雨晴れて行方知れずはこの私
石文は享保と読めり枯れ紫陽花
すいません、大銀座落語祭での小沢さんの話はちょっとお休みさせていただいて、今週もまた、素人俳句の時間ですよ。
宮坂お父さんのお題は「水産物」ですか。ちょっと広いですよね・・・。
今週の昭一的こころが「タコ、イカ、クラゲについて考える」だから、水産物の中でも、まずはそっち系に絞って考えましょうか。
私、魚はなんでも食べるんですけど、魚以外の水産物は、実は、得意じゃないものも多いんです。
例えば、エビやカニの類。いや、お付き合いの席など、食べないと失礼になるような場では、口にしますよ。しぶしぶながら。だけど、わがままのいえる場では、自分から注文することはまずないし、どうしてもエビやカニの料理がセットになっている場合は、気心の知れた相手との食事だったら、その相手の皿に、自分のをひょいっと乗っけちゃう。
タコやイカも、どちらかというと、好きなほうではなかった。特に自分が10代のころは。それが変わってきたのは、やっぱり、お酒を飲み出してからか。
今では、タコもイカも、居酒屋で普通に注文する。お酒を飲むようになると、食べ物の嗜好が、お酒に合うようにだんだん変わってくるのだろうか。
貝類というのも、あまり好きではない。シジミも、アサリも、ハマグリも、まず自分からは注文しない。これは、お酒を飲むようになっても、あまり変わらない。
生牡蠣とか、お刺身の貝は、普通に食べるんだけど。なんだろう、火を通したものがダメなのかな。
子供のころ、シジミやアサリの味噌汁を食事で出されると、イヤで仕方がなかった。特にシジミの味噌汁は、できれば今でも遠慮したい。酒を飲んだ翌朝にいいとか、なんとか聞くけどね。でも、やっぱり好きになれない。
ふと思うのだけど、世間一般的に、味噌汁の中のシジミの身は、食べるものなのか、それとも残すものなのか。
あんなのは、出し殻だろうから、喰ったってジャリジャリするだけで旨くもないし、大した栄養もないんじゃないかと思うのだが。いや、シジミの味噌汁をなんとも思わない人は、普通に喰っちゃうんだろうか。
シジミの身 喰う喰わないで大げんか
これは、世間の人でそういう言い合いがあったら面白いだろうなあということでもあるし、味噌汁の中のシジミの身を食べたくなくて親と言い合っていた記憶でもある。
好き嫌いでいうと、小学校2、3年生位の頃か、急にたこ焼が食べられなくなったことがあった。それまでは、結構好きだったのに、あるとき、包みを開けるのももどかしく、一気に何個も食べようとして、たこ焼が口の中でいっぱいになって、それで気持ち悪くなったせいだ。むろん、今では、普通に食べる。
小学校の同級生の家が、近所でたこ焼屋をやっていた。たこ焼が苦手になるまでは、お小遣いを握ってたこ焼を買いに行って、熱いままの包みを抱えて、走るようにうちに帰ったものだ。
たこ焼の包み ぼくの手の中踊る
今のぼくは、ひとり、居酒屋でたこ刺しをつまみながら、酒を飲む。外は雨が上がった。
雨上がる 焼酎水割り 蛸くにゃり
いったん、これでエントリーも保存したのだが、「焼酎水割り」はいいとしても、その前後が決まらないなあ。「雨上がる」では近作の映画を思い浮かべるし、「蛸くにゃり」はナマに過ぎるような・・・。
雨通る 焼酎を割り 蛸を食む
とりあえず、現段階ではこうしておくか・・・。
タコとくれば、次はイカということになる。
俳句歳時記をぱらぱらとめくっていると(ついに買ってしまった)、イカ釣りというのは夏の季語だそうだ。イカ釣り漁船が、近海で集魚灯をつけて漁をしている、あのイメージか。それでは、釣りたての、口の中で、ねっとり、むっちりと、からみつくようなイカ刺の一切れを思い浮かべてみる。
朝漁りの烏賊 あらがいて喉に落つ
実は、これもエントリーを保存してから何度も手を入れた。難しいねえ。
タコ、イカときたので、クラゲも考えてみたいのだけど、こちらは日常から縁遠く、はるかな記憶の中にも、なかなかクラゲは出てこない。
クラゲといえば、まず思い浮かぶのは、チチ松村さんか・・・。私はクラゲになりたい。
いやいや、私もなりたいですよ。海の中に、いるといないの真ん中くらいの存在感で、ふうわり、ふうわりとね。
ただ、最近イメージ悪いですよね、クラゲ。エチゼンクラゲとか、嫌われ者イメージが付いてしまった。
くらげのごと なりたし 嫌われたくはなし
これだけじゃあ、なんのことか分からないかな。
いやはや、こんな調子で思い出しつつ書いていったら、いつまで経っても終わりそうにないですが。だってまだ、小沢さんの話、冒頭も冒頭ですよ。
そもそも、今回の小沢さんの話には、ちゃんとタイトルがついていまして、題して「小沢昭一の吉原へ御案内」。
小沢さんは、今回、春風亭小朝さんから大銀座落語祭への出演を依頼されたとき、江戸の吉原の話をしてほしいと言われたそうです。小沢さんそれを聞いて、いくらなんでもおれはそんなに古くないよ、だって。
落語の廓噺って、今のお客さんにはなかなか理解してもらうのが難しいそうですね。噺の背景も、出てくる言葉も、われわれにはすっかり縁遠いものになってしまった。だから、廓噺をするときは、噺のまくらでしっかり説明しておかないと、お客さんがついてこないのだとか(これは円菊さんが言ってたんだっけな?)。
ともあれ今回の小沢さんは、休憩後に控えた二席の廓噺に向けて、入船亭扇遊さん言うところの、最高のまくらということになった次第です。
東京にもかつて遊郭がありました。吉原、千住、品川、亀戸、亀有、小岩、鳩の街・・・。目蒲線の武蔵新田というところにもあったという。
小岩の「東京パレス」は、もとは進駐軍のための慰安所で、時計工場の女子寮を接収して遊廓としたもの。入口の正面に「検梅所」なるものがあって、それを見ると、小沢さん、なんだか安心したんだって。東京パレスには進駐軍用だった名残りにダンスホールがあって、そこで女の子と踊りながら、交渉が成立すると、女子寮の中に消えていったのだとか・・・。
赤線というのは、警察がその地域を赤鉛筆で囲ったところから来ているんですね。
そんな赤線地帯も、昭和33年3月31日の売春防止法の施行とともに消えました。
ところで小沢さんは幼少の頃から「売春」という言葉に非常に興味があったそうで、「売春」って何だろう? 当時の子供にできることは、辞書を引くことくらいしかない。さっそく辞書で「売春」を引くと、「春をひさぐこと」。これでは何のことだか分からない。念のためと「春」を引くと、「冬の後、夏の前」。ただし、最後のあたりに「春をひさぐ」の用例があって、意味はと見ると、「売春を見よ」。
その後、小沢さんは吉原大学で売春の理論と実践について学ぶことになるわけですが・・・、いえ、もう実践の方はすっかりで、今は理論一辺倒ですか?
小沢さんが吉原に通うようになって、吉原神社の古い石碑に彫られている銘文を読むと、奉納者の名前に添えて「新吉原・・・」とある。新があれば古もあるのか、と疑問に思って調べると、これがあったので、かつて古吉原というところがあった。
古吉原というのはどのあたりだったかというと、ここ銀座から地下鉄で2、3駅行った日本橋。ここを降りて左に行くと・・・。いや、左に行くとお堀にぶつかって皇居じゃないの。そんなところに遊廓があっちゃいけない。
小沢さん、うっかり日本橋を左に曲がったようなふりをして、これは話を皇族ダネに持っていくためのフリですね。嫁と姑のいさかい、あんなのはどの家だってある話じゃないですか。嫁は今、海外に行ってるんですか? しかしおとっつあんのほうも、海外に行ってもあまり好きにしゃべらせてもらえなくてかわいそうですね。ここで天皇陛下のマネ。「わが国の、過去の歴史に・・・、永六輔です」。
確かに永さんと声似てる。ただし話のスピードは3倍速くらい違いますが。永さんと天皇陛下は年も一緒なんだって。ということは、小沢さんのいくつ下になるのかな?
小沢さんの世代には、天皇が自分より年下というのは、やはりピンとこないようで、天皇といえばどうしても前の人、要するに昭和天皇。だけど、園遊会に招待されたこともないので、一度も昭和天皇と言葉を交わす機会はなかった。もし園遊会に招待されていたら、どんなふうに声を掛けてもらったか。
「売春のほうは、やってるの?」
会場、銀座ヤマハホール。実はここは初めて。エレベーターで7階に上がると、思っていた以上の広い空間に驚く。銀座のビルの中とは思えない。
開演前から場内に度々お囃子の音が流れる。客入れの音楽のようなものなのか・・・。
さあ、照明が暗くなって、幕が左右に開く。
ステージの上に高座。名ビラは「随談 小沢昭一」。
出囃子は、やはり「明日の心」。が、少し様子がおかしい。三味線の音が途中でつっかえる。小沢さんも立ち止まって少し苦笑か。
いきなり余談だが、この曲は三味線で弾くには難しいのだろうと思う。特に、最後の部分。チャチャッチャーン、チャチャチャチャーン、チャンチャンチャンチャーン、という、チャチャチャチャーン、のあたりは、バチが追いつかないのか、どうしてもそこで調子があやしくなる。去年の末廣亭の高座では、そこのところは上手く曲をアレンジしてかわしていた。チャッチャーッチャ、チャーッチャチャッチャ、チャンチャンチャンチャーン、というふうに(こんな書き方でどこまで伝わるかな)。
そういう意味では、今回の出囃子は、正攻法で迫って、あえなく玉砕ということか。
小沢さんは白の着物姿で涼しげ。粋!
高座には、見台、膝隠し。机の上に、湯飲みと扇子、そして話の内容を確認するためか、料理屋の品書きのようなものが見える(ただし、小沢さんは話の途中でそれに時折目を落とすことはあったが、読むようなことはなかったことを付言する)。
小沢さんの声は軽やか、言いよどんだり、つっかえたりすることもほとんどない。調子がよさそうだ。正直、去年の末廣亭で二度聞いたときよりもいい。
あとは、ぼくの記憶にまかせて、思い出すまま覚え書き。
銀座の柳が雨を含んで美しいですね。で、歌いだしたのが「東京行進曲」ですか。
昔恋しい 銀座の柳〜
昔恋しい、ということは、この歌が流行った昭和4年には、銀座には柳並木がなくなっていた(小沢さんは震災で銀座一帯が焼けたから、というニュアンスで言われていたけど、実際にはそれ以前の車道拡張で撤去されたらしい。まあ、どのみち丸焼けになるのだから同じことだけど・・・)。それが、この歌のヒットによって、再び銀座に柳が植えられる。
歌うは「銀座の柳」。植えてうれしい 銀座の柳〜。これは昭和6年の歌。
しかし再び植えられた柳並木も、今度は空襲で焼けてしまった。
敗戦後、みたび銀座に柳が植えられたという歌を、小沢さん歌ってたんだけど、その曲の名前は、何だったんでしょう。すいません、私の調査が及びませんでした。確か昭和22年の歌と言ってなかったかな・・・。
小沢さんが言いたかったのは、歌謡曲もバカにしたものじゃありませんよ、ということで、こうやって銀座の柳の変遷を歌でたどることができるのです。
小沢さんが何か一節歌うたびに、客席から拍手が。でも、それを遮って小沢さん、もっと歌いたいの。
このヤマハホールから、並木通りの方に入ったあたりに、かつて金春演芸場という寄席があって、中学生時代の小沢さんは、たいそう入り浸っていたそうですが。
そこで聞いた○○寅子という音曲師(名字が出てこない。この人の名前は小沢さんの本で見たことがある気がする・・・)。音曲を演る人は小粋なほうがいいんだけど、この人はいかつい感じの人で。それでも「深川」などをいい調子でやってましたよ、と「深川」を一節。
ところでこの人、寅子といいますが、女じゃない、男です。昔は男で名前に「子」のつく人も結構いた。三木のり平さんもそのひとりで、本名は田沼則子(ただし)という。のり平さんは「子」のつく名前だったおかげで、役所の人が名簿から見逃して、戦争に行かずに済んだとか(本当?)。だから、これから子供や孫に名前をつける人は、「子」をつけるといいですよ。また、きなくさくなってきましたからね・・・。
某月某日
ゆうべも飲んだな。部屋飲みだったけど。
お酒を飲んだ翌朝は、近所のスポーツクラブに行って、ぬるい風呂にゆっくりつかり、限りなくボーッとしてから自転車をこぐと、汗がたっぷり出て、酒も抜けていく感じがして、大変によろしい。
その日も、風呂に入って限りなくボーッとしたまではよかった。が、いつもより余計にボーッとしすぎたのか、湯船から降りる階段で足を滑らせてしまい(まさに階段を降りる裸体)、スッテンコロリン、とまではさすがにいかなかったけど、左足のすねと右足のかかとをしたたかぶつけて、そのときはなんともないと思ってたんだけど、気がついたらかかとが切れて血が出ていた。うーむ。
フロントでバンソウコウをもらって、何事もなかったように新聞を読みながら自転車をこぐ。しかし最近そんな話が多いな。
いったんうちに荷物を置いてから、浅草に向かう。今日は隅田川を行く水上バスの中で、ほうほう堂のダンス・パフォーマンスがあるのだ。
ほうほう堂を見るのは二度目だ。去年、東京都写真美術館に「恋よりどきどき」展を見に行ったとき、会場でほうほう堂が踊っていた。小柄な二人が、館内の階段を降りたり登ったり、展示室から出たり入ったり、靴を脱いだり履いたり飛ばしたり、客をいじったり、ベランダみたいなところに登ったりしていた。
水上バスの乗船場へ行く前に、少し足を伸ばして、このあいだチャンポンを食った店に寄ってみる。今日は皿うどん。具はチャンポンと同じだが、とろみをつけてある。それを、パリパリする麺といっしょに、辛子をつけて食べる。ビールを1本。
乗船場に出発10分程前に着くと、すでに出発を待つ客が列をなしている。が、むろん、これはほうほう堂を見に来た人ばかりではない。はとバスとか、何かのパックツアーとか、そういう団体の客が多いようだ。
墨田区民歴も、もう6年になるけれど、水上バスに乗るのは、実はこれが初めて。
過去のアサヒ・アート・フェスティバルでも、何度か水上バスの中でダンス・パフォーマンスが行われていたのだそうだ。知らなかった。というか、知ろうという元気がなかったのだな、今までは。これからは、こういう機会があればなるべく足を運ぼう。これは生まれて以来の大革命。
船に乗り込むランチで、すでに怪しい身振り手振りをした二人組が客をいざなっている。なぜだかなるべく目を合わせないようにしながら乗船。
ほうほう堂のダンスはそれはそれとして、川面から見上げる両国界隈の風景が、思っていた以上に新鮮でいい。観光客を装って外の写真を撮りまくる。
写真を撮ったりダンスを見たりしているうちに、浜離宮、そして竹芝桟橋に着いた。
しかし、船の上であれだけ動いて、ほうほう堂の二人は船酔いしたりしないのかな。私は、酔わなかった。正直いうと、乗船する前はちょっと不安だったけど。でも、まあ、そんなもんだよね。さほど揺れるわけでもないし。
竹芝桟橋でいったん船を下りるとき、偶然ほうほう堂の片割れが隣を歩いていたので、酔わないんですか、なんてトボケたことを聞いてみた。すると、リハーサルで船に乗ったときはフラっとしたこともあったのだとか。あのダンスは決して即興ではなく、シビアな練習に基づいているのだ。
今度は、隅田川を遡行する船に乗る。アートのれん会のツアーの人たちが合流している。
心なしか、ほうほう堂の二人が行きよりも動き回っていた気がするのは、私自身も船の中を動いていたからか。船内の売店で地ビールを買って飲む。
乗客の多くが外の景色を見ているのに、一部の人たちは船の内部を凝視しているという対比が面白い。まあ、ほうほう堂の二人は外を見ている客にも声を掛けて自分たちのダンスに組み込もうとするわけだけど。
さて、浅草まで戻ってきた。時分どきになったので、酒を飲みに行く。
今日は、前に一度だけ入ったことのある、吾妻橋近くのもつ焼き屋にしよう。
ビールで焼き鳥、シロ、ネギ焼き、それからチューハイを2、3杯。
店のおやじさんに「お近くからですか?」と聞かれたので、石原だと答えると、意外に遠くから来たような顔をされた。じゅうぶん近所の範疇だと思っていたのだが。このへんの距離感はそういうなものなのだろうか。
カウンター奥の客が、うな重を食っていて旨そうだ。この店ではそんなものも出すのか。
酔いで自制心が鈍ってるんだな。誘惑に勝てず、結局自分もうな重を頼んでしまう。旨い。旨いが、酔ってるから何を食ってもおんなじだよ。この分は、明らかにカロリーオーバーだ。まあいいや。明日控えりゃいいんだ。
しかし「生活習慣」という題は難しい。どうしても川柳になってしまうのです。
生活習慣病の予防のために、スポーツクラブに行こうという人も多いことだと思います。
例えば、そのスポーツクラブのおばさんたちの姿を思い浮かべて。
体より 口ばかり動く ジム通い
ジムまでも井戸端にするお母さん
ワールドカップも終わりましたが、にわかサッカーファンの中には、こういう習慣がついてしまった人もいるのではないかと。
サムライブルー去ってなお4時に目が覚める
これを、
サムライブルー去って 夏至の朝ぼらけ
とすると俳句っぽいけど、生活習慣はどこかへ行ってしまう。
最後に、これは今日の私のことですが、
生ビールちらつく 宿酔さめし午後
われながら困った生活習慣です。
唐突ですが、昔の人は、文化的に豊かだったと思うわけです。
そりゃ、その地域とかにもよるんでしょうけどね。
どこかで読んだか聞いたかした話ですが、幕末、街道筋の木の枝に、一羽の鷹が止まった。それを見た西洋人は、さっそくその鷹を銃で撃とうとした。が、周りの日本人たちはというと、ある者は懐紙を取り出して鷹の姿をスケッチし出し、ある者は短冊を取り出して俳句をひねろうとする。その様子を見て西洋人は、自分の無粋さに恥じ入ったという。まあ、実話かどうか分からないですけどね。
とにかく昔は、今と比べて、風流というか、粋というか、万事余裕のある人が多かったというのは、確かだと思います。
小沢さんの「句あれば楽あり」を近所の図書館で借りてきて、ぱらぱらめくってるんですが、どうやら小沢さんのお父さんも、そんな風流人だったらしい。
ご承知のとおり、小沢さんのお父さんは戦前の蒲田で写真館を営んでいたわけですが、小沢さんの文章によると、写真屋の営業は二の次で、近所の商店街のオヤジ連中と、釣りや小鳥の飼育や麻雀や川柳などを楽しんでいたそうで。
そう聞くと、江戸の粋人から小沢さんのお父さんまでは、さほど距離は遠くないように思える。それがいつの間にか、われわれ、すっかり無粋になってしまった。
われわれのほんのひと世代、ふた世代前までは、季節に応じて床の間の掛け軸を替えたり、花を活けたりということを、ごく自然に行っていたのに、一体どうしちゃったんだろう。
ま、あまり懐古的になりすぎてもいけませんから、今の、われわれの都市生活の中で、何ができるのか。昔のものから何かいいところを取り入れ、それをうまく適応させる、そういったところから考えていきたいと思う次第ですが・・・。
で、またもや唐突ですが、昔の粋人の趣味もいくつかある中で、俳句をひねるというのは、案外いいんじゃないか。実は今、俳句というのが来てるんじゃないか。そんな直観が、頭をよぎるのです。
小沢さんの話、それも「句あれば楽あり」の話を始めたのも、ここで俳句というのを考えてみたいと思っているからですよ。
あれは先月くらいでしたか、愛媛県は松山で、「坊っちゃん大句会」というのが行われたと、一部新聞紙上で紹介されておりました。これは東京やなぎ句会の公開句会として開催されたようですね。
いやあ、松山の人がうらやましい。東京やなぎ句会の面々が苦吟?するさまを生で拝めるなんて。
小沢さんのことを追いかけていって、東京やなぎ句会のことも知ったわけですが、同年輩の気の置けない仲間が、月に一度の句会に集って三十余年。私も、ああいう仲間付き合いができたらいいなあと、シミジミ思うのです。
いえ、俳句は全然やったことありませんが・・・。
そんなことを、某掲示板、といっても、ご存知宮坂お父さんのページの掲示板ですが、そこでぽそっと書いたら、 ではここで句会をやってみようという話になってきた。むろん、ネット句会、オンライン句会です。繰り返しますが、私、これまで俳句のたしなみなどまったくない。
最初のお題は「サラリーマン」。
ここで、私が酔いの勢いで書き散らした句を披露してしまいましょう。
我もサラリーマンとなれりと手酌
旧友は出世したらし、酒苦し
それぞれの説明は省きます。両方とも、全然季語ないですね。破調だし。
で、次のお題は「生活習慣」だって。それって今週の小沢昭一的こころだー。
これは難しい。なぜか、全然、湧いてこない。この場を借りて、ぐだぐだ書いているうちに、駄句でもなんでもいいから、何か湧いてくるかなと思ったんですが、ダメみたい。
生活習慣で、何か上手く、季節が織り込めればいいんだけど、難しい。
というわけで、ここで私も、生活習慣について考える。また明日のこころだァー!
歳時記でも、買って来よ。
某月某日
すみだリバーサイドホール・ギャラリーの照屋勇賢展をちらりと覗いてから、アサヒ・アートスクエアでAAF学校に参加。
AAFの会期にあわせて開催されているこの連続講座のことを、実はついこのあいだまで知らなかった。墨田区民なのに。
今日は加藤種男氏による「アートとビールの楽しい関係について」というお話。
ビールの製法やその歴史から始まって、氏が先日訪れたという金剛峰寺やそこで食べた精進料理の話へと。どこでアートに繋がるのかな、と思いつつ聞いていると、沖縄の例をとりつつ、神事=祭事においては、お酒と芸事がつきものであり、神の前で奉納する芸能がアートの発祥であった。したがってお酒とアートは切っても切れない関係にある、というところで繋がった。
かつてアートと生活とが密着していた時代があった。昔の家には襖と床の間があり、襖には絵が不可欠である。どんな家でも床の間には掛け軸があり、複製だろうと四流、五流の作品だとうと、少なくとも季節ごとには掛け替えていた。
サラリーマン層、加藤氏の世代のようなおっちゃんがアートから疎外されている、という指摘は、私も意を同じくするところだ。
会場との質疑応答。60代の男性が、カネもヒマもある同世代の男性のアート活動への参加について問う。
その質問を聞きながら、50代、60代が問題じゃないんだ、30代、40代の疎外こそが問題なんだ。ヒマになったから参加するとか、そんな都合のいい話があるもんか、と思う。
加藤氏答えて曰く、その世代には他に面白いことがある。例えば孫や野菜作りなど。
今度は22歳の学生が質問。サラリーマンのアートへの参加ということでは、居酒屋にアート作品を置いたらどうか。
居酒屋を持ち出されては、こちらも心中穏やかではない。サラリーマンは居酒屋に行くから、居酒屋にアート作品を置けばいい、というのは、あまりに楽天的ではないだろうか。また、それはサラリーマンにも、そして居酒屋にも礼を失するのではないか。
このころには、私はすでに会場でその日3本目の缶ビールを開けてしまっており、かなり自制心が緩んでしまっていたので、手を挙げて場内に発言を求めてしまう。
ビールの酔いのせいで、日頃の私には珍しく弁舌滑らか(当社比)だったが、最後は自分でも何を言っているのか分からなくなってしまう。が、言いたいことは、上に書いたようなこと、そして先日のすみだ川びっくりアートツアーの話のときに書いたようなことだ。この話を続けると、際限なく長くなりそうなので、このへんでやめるが、いずれ自分のための覚え書きにまとめて書いておくのもいいかも知れない。
このとき痛感したのは、そうか、アートって20代が主体なんだな。30代のサラリーマンって、アート化?されるべき客体なんだな、と思った。アートの対象という意味では、向島という街も同じだ。
さあ、いま無邪気に発言している22歳の学生は、10年後、まだ現代アートに執心しているだろうか。
マイクを返して、落ち着いて考えてみると、アート居酒屋というのも悪くないじゃないか、と思う。どういう形が考えられるか・・・。
先日のBankARTでの「美食同源」展のとき、これは居酒屋ではないけれど、野毛の三陽の天井から作品が掛かっているのを見た。が、正直いって、三陽という店のもつエネルギーが強すぎて、アートの存在感がかすんでしまっているようにも感じられた。だから、そういうじゅうぶん強い店は、店自体がアートだから、あえてよそからアートを持ってくることはないのだよね。
例えば、阿倍野の明治屋のように、都市開発などのために姿を失いつつある店で、時限的に、何かできないか。あるいは、それとはずいぶん違うけども、和民や白木屋のような、大規模なチェーン店系の居酒屋の、一種のメセナ活動として、アートとの関わりを考えることもできるのではないか。いずれにしても、まあ、夢想だけど。
さっきの22歳の学生氏と言葉を交わしてみると、なんだか気持ちのいいヤツでね。こうヤツも、いつか、サラリーマンや、会社の魔力に飲み込まれていってしまうのかな・・・。
AAF学校終了後、加藤氏はじめ何人かが場所を変えて二次会をするというので、ノコノコ付いていく(またかよ)。吾妻橋を渡って、浅草の雑居ビルの中の居酒屋に入る。
生ビールを飲んでいると、私のジョッキにビールの泡の円弧がきれいに層をなして残っていると指摘される。照屋勇賢展のギャラリーのガラスの壁に配された作品も、グラスに残ったビールの泡をモチーフにしているんだって。いやはや、私も居酒屋修行のかいがありましたかね。その晩は、ビールばっかり、飲みすぎた。

これも早いうちに書いておかないと忘れちゃうよ。
息せき切って鈴本演芸場のホールのドアを開けると、お、まだ幕が上がっていない。
場内はすでに7、8割方ほど埋まっているように見える。あるいはもっとか。頭を下げて椅子の間を通してもらって、適当な場所に座席を確保。
程なく幕が上がって前座さんの登場。
後から演芸名鑑で調べると、志ん駒門下の古今亭駒次さんだったのかな。
演目は「転失気」。
口を大きく開けてハキハキと喋っているのがすがすがしく、好感が持てる。
ただ、最後のあたりになると、聞いていて話の筋がうまくつながっていかない箇所があった。なんだろう、口から出る言葉をうまくコントロールしきれていないような感じか。
続いて、正蔵門下、林家たけ平さん。そういえばこの人は二つ目に上がったんだな。
ずっと林家錦平さんを追いかけていて、前座で喋るたけ平さんの姿を何度か見ていた。
まだ若い(と思う)好青年(と思う)なのに、しっかりと落語を演じていて、感心して聞いた記憶がある。さすが、錦平さんに付いていることはあるなと思った。
今回の演目は「鮑のし」なのだが、本題に入る前に、しばらくまくらをふる。
たけ平さんのまくらというのは、初めて聞いた気がする。落語界の細かいしきたりは知らないが、やはり前座のうちは高座で余計なことは喋らせてもらえないのだろう。
それにしても、たけ平さんがフリートーク風に笑いを取ろうとするのを聞いていると、なぜか面映い。ときどき勢いあまってつっかえているのも、どこか初々しい。
ひとつメモから起こしておく。健康ランドの薬湯は茶褐色ににごっているけれど、絶対誰か中でおしっこをしているはず。というのは、実は自分もしているから。効能書きに8種類の漢方が入っていると書いてあるが、自分がおしっこをしたから9種類になった、云々。書くとつまんないね。聞いているとクダラナクて結構笑えたんだけど。
「鮑のし」のほうは、亭主の稚気が勝ちすぎていたのか、一瞬、女房というより母親と子供の会話みたいに聞こえた。そういうものなのかも知れないが、あるいは演じ分け方の問題なのかな。
しかし、こうやって前座さんと二つ目の落語を並べて聞いてみると、それぞれにハードルがあるものだなと思う。もっとも、そのハードルに前向きに挑戦しているからこそ、そう聞こえたのだろう。
さあ、待ってました、錦平さんの登場。
演目は「佃祭り」。実は、この噺は、先日の三平堂落語会でも聞いた。
そのときに聞いたのと、ほとんど演出も変えていないようだ。
と思いながら聞いていたら、船がひっくり返って死んだ(と思われていた)旦那にお悔やみをいう場面で、三平堂のときは月番は与太郎だったのに、今回の月番は噺家の三平さんかよ!ヤラレタ!
先日もそうだったが、噺のバックに祭囃子の演奏が入るのが印象的だった。
さて錦平さんが引っ込んで、続いて種平さんの出番、というところで、名ビラをめくりに現れたのは、あれはこないだ三平堂で見た林家ぼたんさんではないのか。
が、名ビラ立てを持ったまま、キツイ表情をぴくりとも変えずに会場を射るように見ているから、なんだかあのときと別人のように思えた。
舞台の上から客の出入りの様子を見ながら、種平さんの出番までの間をはかっていたのだろうか。それにしても、あの冷たい仏頂面は、なんとかならなかったのか。
種平さんの一席目は「ぼやき酒屋」。
以前、池袋演芸場に林家正蔵襲名興行を見に行ったとき、春風亭小朝師がこの噺を軽く演じていて、最高に面白かった。
この噺では、最近の歌と昔の歌を対比させてボヤくわけだが、誰のどういう歌を取り上げるかで演者のセンスが問われる。また、それがウケるかどうかは、客との兼ね合いもあるだろう。
小朝師のを聞いてしばらくしてから、末廣亭で別の人が演じるのを聞いたが、そっちはあまり感心しなかった。
今回の種平さんの「ぼやき酒屋」の内容は、小朝師のとほぼ同じ。やっぱり同じ一門だから?小朝師の軽やかさはないけれど、噺家さんらしい野放図さは種平さんのほうがあるかも。
噺のつかみで、種平さん「酒の好きな人が、夢の中で・・・」と言おうとして、「夢の好きな人が・・・」。
種平さん曰く「大丈夫、これはマクラだから」
多分、こういうところがこの人の魅力なんだろうと思う。ある意味、林家っぽいというか・・・。
一方の錦平さんは、三平一門にしては、古典落語をしっかりとやる人。そんな二人が一緒に会をするというのも面白い。
種平さんが高座に上がると、客席から「待ってました!」「かっこいい!」だの、やたらと声がかかる。錦平さんが少しかわいそうなくらい。いやいや、私は錦平さんをずっと待ってましたよ。声には出しませんでしたが・・・。
そういえば、今回の二人会のトリ、錦平さんの二席目が始まる前に、種平さんの贔屓の客が結構帰ってしまったようで、そのことを錦平さんがボヤいていたのもおかしかった。もう少しガマンしていましょうね。
某月某日
AAFすみだ川びっくりアートツアーに参加。
向島界隈から錦糸町までぶらぶら歩く。時折小雨は降るが、大降りにもカンカン照りにもならなかったのは幸い。
ツアー終了後、何人かの方が打ち上げにビールでも飲んでいくというので、私もノコノコ付いていく。錦糸町北口のビル地下の居酒屋に入った。
店に腰を落ち着けたところで、よくよく話を聞くと、打ち上げに参加した私以外の方すべてが今回のイベント関係者、あるいは過去に関わったことのある方ばかりで、いやはや、今考えても、冷や汗の出る思い。
しかし、酒が入ると私も気が大きくなってくるもので、いろいろお話を伺う中で浮かび上がってきた思い、すなわち、場所もない、カネもない、だけど美術が好きで、若い作家さんたちを支援したい。そんな人に、何かできることはあるのか?という疑問をぶつけてみる。
ひとつの答え。自分の見たものを言葉にして、それをできるだけたくさんの人に伝えること。
もうひとつの答え。安いものでもいいから、彼らの作品を買ってあげること。そこから広がる関係がある。
さらに、別の人の答え。私も場所はない、だけど、自分の場所がなくても、クラブをハコ借りして、アートイベントを企画する。そして、知っているアーティストに声をかけて、そのアーティストの知り合いを呼んでもらう。
なるほど。それだとリスクはハコ借りの代金だけで、あとは客が来れば来るだけ、そのチャージはアーティストたちのために回すことができる。
しかし、それは若くて人望のある人の場合だよ。今のぼくには、その両方ともない。
せいぜい、今のぼくにできるのは、なるべく多くの若い人たちの作品を見ることくらいだ。実にナサケナイ限りだが、それでも、見ないよりはマシだという一念で足を運ぶ。
もっとも、それには時間的な制約がある。なぜ、ほとんどのギャラリーは、日曜は休み、平日も夜7時くらいで閉めてしまうのか。公立の美術館も同じ。もし美術館が平日8時、9時まで開いていれば、仕事帰りの会社員も気軽に見に行けるのに。
今回の一連のイベントでも、学生など若い人たちが献身的にボランティアとして活動に従事していることには心から敬服する。しかし、なぜ学生ばかりなのか。30代、40代の社会人が、現代美術、あるいは広く文化的な活動から遮断されてしまうような構造的な問題がある。そこには多くの潜在的な美術好きが眠っているかもしれないのだ。
おっと、居酒屋の話はどこかへ行ってしまった。が、若い人たちの熱気にあてられて、ぼくもおかしくなってしまったようだ。こういうことだから、いけないんだな。もう少し自分の年を省みないといけないのだろうが、まあいいや。このまま狂っていきましょう。
某月某日
ゆうべ、近所の焼鳥屋に行った帰り、自転車に乗っていたら歩道の植木にぶつかって、したたか体を地面に打ち付けてしまった。まあ、肘をすりむいたくらいで、大したことはないですけどね。
しかし、朝になってみると自転車のチェーンが外れていたので、少し歩いたところにある自転車屋で直してもらう。修理代、100円。
茗荷谷でひとつ用を済まし、それから新宿に出て買い物。初台に行って帰って、高田馬場に出て、また別の用を済ます。
いったん早稲田通り沿いの鳥やすに入ろうと思ったが、なんだかぼくの気が乗らなくて、すぐに店を出る。それで、さかえ通り沿いの鳥やすに入り直す。
瓶ビール、お酒、それからお酒をもう一杯。焼き鳥4本と、松前和え(鶏肉のわさび和え)。
ルミネのブックファーストで買った、小沢さんの「小沢昭一的新宿末廣亭十夜」を読みながら。
高田馬場の駅頭は、何があったか知らないが(あるいは何もなかったのかも知れないが)若い人だらけ。またも、熱気にあてられる。